社畜からノマドへ ~自由なライフスタイルを求めて~
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最近、世界で最も貧しい大統領と呼ばれる

ウルグアイのムヒカ大統領が話題になっている。


世界で最も貧しいとは、

彼自身が資産を寄付にまわして個人資産をほとんど持たず

質素な生活を貫いていることからそう呼ばれる。


このムヒカ大統領が、リオ会議という国際的な舞台で

更なる経済発展を追い求める風潮に対して敢えて疑問を投げかけ、

世界中に警鐘を鳴らした。


「貧しい人とは、少ししか持っていない人のことではなく

 無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」


現代の人々が頭では分かっていながら

どこかに置き去りにしているものを、思い起こさせる言葉。


豊かさとは満たされていることを知ること。




向上心を持つことは素晴らしい。


でも、上を目指すエネルギーは少し方向性を間違えると

自己否定に繋がり、自分自身に復讐してくることを

覚えておいたほうがいいかもしれない。


以前、私も向上心を持って必死に生きているにもかかわらず

一向に満たされない自分の心に嫌気がさし、

苦しくて投げやりになりかけた時期があった。


その時に出会った一つの言葉が

心のあり方、置き処を教えてくれた。


人間の意欲には二種類ある。


一つは欠乏・渇望から生まれる意欲。


もう一つは感謝から生まれる意欲。


あなたの心から湧き上がる意欲は、どちらの意欲だろうか。



満たされない思いを埋めようとする意欲はまるで海水のよう。

飲めば飲むほど心の渇きは増す。


一方、感謝からくる意欲は尽きることがない。


感謝の思いを明日へ向かうエネルギーに変えて、

日々頑張っていけばいい。


少しだけ心が楽になった。




京都の龍安寺にある‘知足のつくばい’をご存じだろうか。


龍安寺は石庭が有名。

白砂が敷き詰められた庭に15個の石が配された

とてもシンプルな造りになっている。


しかし不思議なことに

どの角度から見ても15個の石すべてを見渡せる場所は存在しない。


そんななか、石庭とは反対の裏手に回ったところに、

‘知足のつくばい’は存在する。


つくばいに書かれている文字。


「吾唯足知」


われ、ただ、足ることを知る。


なんとも粋な計らい。


時を超え、

歴史の賢人が我々に語りかけている。

ゾーンという言葉をご存じだろうか。


スポーツの世界でよく使われるが、

肉体的にも精神的に完全に調和がとれた

極限の集中状態を指す言葉。


この状態に入ると、自分でも信じられないくらいの

パフォーマンスを発揮できるという。


野球選手で言えば、

まさに「ボールが止まって見える」状態。


火事場の馬鹿力とも呼ぶべき、

本来人間に備わっている能力が存分に発揮されている状態。


人間には自分が想像する以上の力が眠っているのだが、

普段は脳が生命の危機を感じて何かとストップをかけてしまうため

なかなか表に出てくることはないらしい。


このゾーン状態のことを知ってから、

何とかこの状態を意図的に作り出すことができないものかと

ずっと考えてきた。




長野オリンピックの金メダリストである

スピードスケートの清水宏保選手は、

こんな表現をしている。


人間の心理的限界は肉体的限界ははるか手前で起こる


本来、肉体的な限界はもっと先にあるはずなのに

恐怖心から脳がブレーキをかけてしまうとのこと。


トレーニングとは、その心理的限界をいかに引き上げ、

本来の肉体的限界まで力を発揮できる状態を

いかに作り上げていくか。


こう語っていた。


持病の喘息を抱えながら小さな体を磨きあげ

世界の頂点を極められた方の言葉には、

大変な説得力があった。




清水宏保選手を綴った一冊のノンフィクション作品がある。


超一流のアスリートが己の肉体との対話を繰り返し、

感覚を言語化することで再現性を生み出そうという営みが

克明に綴られている作品。


人間の限界に挑むということが

どれほどまでに壮絶な取り組みなのかを

私たちに教えてくれる。


また、読んでいると思わずわくわくするような言葉が

至るところにちりばめられている。


是非ご一読頂きたい。


「神の肉体 清水宏保」(吉井妙子)

生きていると、

自分との才能や境遇の違いに羨ましくて仕方ないくらい

輝かしい人、素晴らしい人に出会うことがある。


一体、どうしてこれほどまでに自分と違うのか。。


昔はよく嘆いていた。


でも、最近少しばかり世の中のことを知るにつれ

人間は何事もトータルで見ないといけないと思うようになった。


人の人生は、決して一面だけを見て判断することはできない。




誰もが羨む大スターと呼ばれる芸能人が

人知れず背負っている、想像を絶する苦労。


飛ぶ鳥落とす勢いの政治家が

ひそかに抱える家庭問題。


世界中から期待を受けるスポーツ選手が

血を吐くような思いで続けている尋常でないレベルの努力。


表舞台に立つ人たちが

周りから見えないところでどれほど大変な思いをしているか。


それをすべて引き受けたうえで

それでも自分はその人に憧れるのか。


表面だけを見て判断してはいけない、

裏の側面も理解しなくてはいけない、と思うようになった。




話が急に変わるが、

『‘その日’から読む本 ~突然の幸福に戸惑わないために~』

という小冊子をご存じだろうか。


これは、宝くじの高額当選者だけに配布される小冊子である。


宝くじに当選した人を追跡調査すると、

あまり幸せになっていない人が多いらしい。


ということで、

高額当選者に向けた手引きなるものが用意されるようになった。


普通の人が突然まばゆいばかりの光を浴びるということは

果たしてどういうことなのだろうか。




成功者はあまり日の当たらない部分を見せてはくれない。


でも、浴びる光が強ければ強いほど

刻まれる影は、確実に濃く深くなっていく。


光を浴びたいのであれば、影を背負う覚悟を持たなくてはならない。


光と影、表と裏、陰と陽。


優雅に見える白鳥ですら、

水面下では必死に足をバタつかせているという。


自分はどこまで陰の部分を背負えるだろうか。


ふと、そんなことを考えてみた。

コンサルタントをしていると、

「正直何をしてるか全くイメージ湧きません、うさん臭さを感じます」

なんて言われることがある。


そんなとき、

「分かりやすく言えば、アーティストみたいなものです」

と答えるようにしている。


“ますます怪しいではないか。。”


しかし、別にこれはカッコつけているわけでもなければ、

ふざけているわけでもない。




ミュージシャンは楽器というツールを用いて

音楽という作品を生み出し、

コンサート、ライブという場で自らを表現する。


画家は絵の具とキャンバスというツールを用いて

絵画という作品を生み出し、

展示会という場で自らを表現する。


コンサルタントはノートPCというツールを使って

成果物という作品を生み出し、

プレゼンテーションの場で自らを表現する。


これらは同じようなものだと思う。


免許も資格もいらない。

まさにゼロからイチを作り出せる仕事。



でも、逆に言えば

自分の作品はお金を払うに値するモノになっているか。


厳しくジャッジする目を忘れてはならない。


音楽に魅力がなければ単なる雑音にすぎず、

絵画が芸術性を帯びていなければ単なる落書きなのと同じ。


誰もそんなものにお金を払いたいと思わないし

そもそも、見向きもしてくれない。


成果物の品質が普通の人では辿り着けない領域に達してこそ

作品は希少性を帯び、

そこにはじめて付加価値が生まれる。


だからこそ、日々己に磨きをかけ、

切れ味のあるアイデアを絞り出そうと悪戦苦闘する。


ミュージシャンや画家が感性を磨きインスピレーションを求めるように

コンサルタントも知識を吸収し、知恵の獲得に努める。


たえず世界を新鮮な目で見つめ、

時には海外を飛び回りながら新たな情報を集め、

世の中の動きにアンテナを研ぎ澄まさなくてはならない。


人の集まる場所に足を運び、人と関わり

人に対する深い洞察を身につけなくてはならない。


起きている時間はすべては創作活動の一環。

経験することはすべてアイデアの種。




成果を出すことができれば、こんなに面白い仕事は無い。


作る資料、自身の発言など

自分のDNAが組み込まれた分身がどんどん増えていき、

資産として蓄積され、歴史が形作られていく。


コンサルタントもアーティストとしての矜持を。

よく議論される普遍的なテーマの一つに

物事は量か質かというものがある。


この議論には一つの真実がある。


それは、質の高い人は

それだけ量をこなしているという事実。


あまり知られていないかもしれないが、

天才と呼ばれた画家ピカソは

生涯で最も多くの作品を残した画家と言われている。


また日本のプロ野球史上、最も多くのホームランを打った

王貞治氏の通算打席数は、歴代二位である。


ちなみに通算打席数の歴代一位は野村克也氏(通称ノムさん)で、

こちらも超一流である。


こういった例は挙げればキリがない。


いわゆる一流と呼ばれる質の高い人は、

尋常でない量をこなしていると言える証拠である。




最近ビジネスの世界でも

ワークライフバランスという言葉が随分広まってきた。


プライベートを大切にするという考え方には自分も大賛成だ。


それでもやはり、

一流の経営者やデキるビジネスパーソンが

大抵ハードワーカーであることは否定しようのない事実だと思う。


一流と呼ばれる人でも量をこなしているのだから、

私のように残念ながら才能に恵まれなかった人間ならなおさら

量だけは何があっても周りに負けてはならない。

そう思うようになった。


何かを極めようと思うのなら、

少なくとも量くらいは誰にも負けないくらいこなす。


地道に泥臭く、量を追い求めていく。


そうすれば、

いつか量が質に転化してくれる日が訪れるかもしれない。


そんな期待感をもって

またこの瞬間から、地道に努力を積み重ねていきたいと思います。




質を求めるなら圧倒的な量が必要。


肝に銘じていきたい。

少し遅くなりましたが、

簡単に自己紹介をしてみたいと思います。



とある地方の小さな町で生まれ育った私は、

高校卒業とともに上京し
大学生活を経て、社会に出ました。


就職した会社は、いわゆる大企業と呼ばれる組織でした。


当時、自分が本当にやりたいことが分からなかった私は
「大は小を兼ねる」

「大企業に就職しておけばひとまず色んな可能性が開けるだろう」
なんて安易に考え、会社を選んだのです。


しかし、これが大きな失敗の始まりでした。


入社後すぐに

“自分は就職したのではなく、就社したのだ”

と気づかされたのです。



まず自分がどんな仕事をやるかを決められない。


大企業ゆえに本当にさまざまな仕事があり、

色々な仕事に関われるといえば聞こえはいいですが

何をやることになるかは入ってみるまで全く分からない。


実際、最初に配属された部署は自分の希望とは異なる部署で
毎日会社に行くのがとても憂鬱でした。


また異動・配置転換の多い会社だったので

会社の辞令一つで突然全く異なる業務に変わることも珍しくない。


しかも殆ど引継期間もないまま

日本全国、世界各国に赴任させられる。


とにかく自律的なキャリア設計・人生設計をしづらい会社でした。


一言で言えば、

自分の人生のハンドルを自分で握れていない感覚-


そのうえ仕事は本当にハードで、

旧体質の組織ゆえに人の扱い方も荒かった。


理不尽な思いをしたことは一度や二度ではありませんでした。


自分はこれからどうなってしまうのだろう。

毎日不安で仕方なく、閉塞感と焦燥感でいっぱいでした。


同僚や先輩にそれとなく相談しても、
「みんな我慢してるんだ」

「外に出たら今の自分がどれだけ恵まれてるかよく分かるよ」

なんて答えばかり。


何だかいつもはぐらかされたような気持ちでした。


周りの同僚とは違って、
会社という組織を無邪気に信じることができなかった自分は
いつも同僚に違和感を覚えていたような気がします。


すごいなと感心する人はたくさんいても、

心からこうなりたいと純粋に憧れる人生を送っている人が

社内を見渡しても全然見つからない。。




いよいよ会社員人生に限界を感じた私は
外の世界に活路を見出すことを考え、
会社の外で色んな人と接点を持つことを始めました。


今思えば、これが一つの大きな転機になりました。


世の中には色んな生き方をしている人がいる。
自律的な人生を自分で作り上げ、

心から人生を楽しんでいる人がいる。


このような人たちと出会い、付き合っていくなかで

心からワクワクできている自分に気づきました。


会社の外には自分が純粋に憧れられる世界が

確かに存在していました。


大企業という大きな船に乗るだけが人生ではない。


組織のインフラに依存することなく、自己責任で生きながら

一個人として付加価値を発揮できる仕事。


‘あなただから’と言われる仕事。


そんな仕事をしてみたいとの思いから、
コンサルタントとして生きることを決意しました。




大企業の一員だった頃と比べると
もう自分を守ってくれるものは何も無くなりましたが、
確実に人生の自由度・充実度は上がっています。


いつの日か自分の思い描く理想の人生を堪能するために
日々新たな気づき・学び・発見を積み重ねていく。


そして、

いつ終わりがやってきても悔いが無いように
毎日を真摯に生きる。


そんな姿勢で人生という旅路を進むなかで、

気づいたことや感じたことを共有していきたいと思っています。


ぜひお付き合い頂ければ幸いです。

以前、友人に誘われてある講演会に参加したとき、
講師の話の中で妙に納得させられたものがあった。


人生の質は何で決まるか-


この極めて哲学的な問いに対する答えは、

以下のようなものだった。


どれだけお金を稼いだか

どれだけのステータスを手に入れたか

どれだけ幸せな出来事を経験したか

どれだけ素敵な仲間に囲まれたか。


実はそれらは決して本質ではない。

すべて手段でしかない。


人生の質を決定づけるもの、

それは日頃感じている感情の質

というものであった。


んー、なるほど。




講師は話を続けた。


もし、自分の右腕を十年間貸して欲しいと言われたら、
あなたは一体いくらで貸し出しますか。


この問いに対しては、何千万円、何億円、何兆円という

実際の金額が出てくることが多いという。


でも、次の問いには誰もが答えに窮してしまうらしい。


もし、あなたが嬉しい、楽しい、ドキドキ、ワクワクなどの

プラスの感情を十年間他人に譲って欲しいと言われたら、
それにより、マイナスの感情だけで今後十年間を過ごすとしたら、

あなたはいくらで譲りますか。




言われてみれば確かに

とてもシンプルだけどプラスの感情こそ、

人間が追い求める究極のゴールのような気がする。


であるなら、

それほどまでに重要な感情を自分は大切にしているだろうか。


本来自分とは無関係の些細な出来事に

心揺さぶられたりしていないだろうか。


私たちはいつも

自分の感情のゆくえを周囲にゆだねてしまう弱さを持っている。


また今この瞬間を全力で生きるということをおろそかにしがち。


もう二度と取り戻すことのできない過ぎ去った過去にとらわれ、
まだ起こってもいない未来の出来事におびえ。。




生きていると色んなことが起こるけれど、

少なくとも自分の感情だけは自分でコントロールする。

自分の機嫌は自分で取る。


この覚悟だけは常に持っておきたい。

ビジネスの現場において、仕事の成果にこだわるよりも

情報収集や勉強に重点を置いてしまっている人がいる。


一体、今取り組んでいる情報収集は何の目的なのか。

何のための勉強か。


それが意識されず、

手段が目的化してしまっているのだ。


もしかしたら世の中でよく言われるノウハウコレクターのような人たちも

これに近いのかもしれない。



私も初めて社会に出た時、学生時代の癖が抜けきらず

いわゆるお勉強好きなビジネスマンだったように思う。


しかし、ある時上司に言われた一言で考えが変わった。


「水は喉が渇いてから飲め」


要するに、アウトプットが求められるなかで

知識や情報が本当に必要になった時に

初めてインプットを試みよという趣旨の助言である。



ビジネスの現場にいる方ならすぐ理解できると思うが、
目的が明確でないインプットは非常に効率が悪く、無駄が多い。


だからこそ、

インプットは常にアウトプットを意識したうえで行われるべきである。


例えばリサーチ作業やネット検索であれば、

ある程度の仮説を立てたうえで

その仮説を検証するために行うのがよい。


そうでなければ、膨大な情報の海でさまよい、

体力ばかり取られた結果として最後は溺れる、

なんてことになってしまう。


何事にも目的意識と方向性が必要なのだ。




とりあえずプラスと思われる行動を積み重ねておくこと。

これは決して間違いではない。


でも、本来は必要ないものを摂取しすぎて

栄養過多になっては意味が無いし、

飲み方を間違えて薬が毒になっては本末転倒だ。


マジメな人が陥りがちの手段の目的化には

くれぐれも気をつけよう。



インプットにはアウトプットを。

リサーチ作業には何らかの仮説を。

貯蓄には明確な資金使途を。


とかく、水は喉が渇いたときに飲めばいい。

コンサルタントとして仕事をするなかで、

クライアントから頂いた資料を基にデータ分析をするプロセスがある。


膨大な資料と睨めっこしながらデータを整理・加工・分析し、

その中から重要だと思われるポイントを紡ぎだしていく。


正直とても地道な作業であるため、

最初は私もいかに効率的に進めるかばかり考えており

できればこのプロセスをカットできないかとすら思っていた。



ところが、いざクライアントの前に出て説明や報告を行う場面や

交渉・折衝のフェーズにおいては、

このプロセスを丁寧に深くじっくりと行った時ほど

物事がうまく進むように感じることが多くなった。


一言でいうと、上記プロセスを丁寧に深く進めることで

自分の説明やプレゼンに迫力を持たせられる気がするのだ。


そこからこのプロセスの重要性に気づき始めた。


自分で手を動かし、生の情報に触れ、そこから何かを導き出す。


状況によっては、工場や設備がある現場に足を運び

フィールドワークを通じて

その場でしか味わえない何かを感じ取りにいく。


すると何かしらの気づき・学びを得られる。

確実に自分の中に経験や体験を蓄積していくことができる。


私は次第にこのプロセスの面白さに夢中になり、虜になっていった。




これは何も仕事に限ったことではない。


日常生活で起こる何気ない出来事やちょっとした変化への気づき。


いつも接している周りの人の微妙な変化に気づき、

そこから自分の行動や接し方を軌道修正していく。


相手の声にならない声を汲み取り、静かに手を差し伸べてあげる。


それにより、円滑な人間関係を作り上げられる。


仕事上のデータ分析でもプライベートの人間関係でも、

いずれにも共通して大事なことは、いかに小さなファクトから

その先・その奥にあるものを掴み取ることができるか。


ちょっとしたほころびから異変を感じ取ることができるか。


言葉では表現しづらい違和感を大事にできるか。


興味・関心・好奇心をもって世界を見つめ、

自分の感性というアンテナの感度を高めていくことは

とても大切なことだと思うのだ。




我々はまだこの世界の奥深さや可能性を

汲み尽しているわけではない。


長くて80年というあっという間の人生の中で、

いかに一つ一つの経験を色濃いものにすることができるか。


それは、どこまで自分の感覚を研ぎ澄ませられるか次第だと思う。


もっと自分のアンテナや磨き、世界の生の姿に触れてみたい。

もっと世界を堪能し、味わい尽くしてみたい。

毎日忙しくて忙しくて仕方ない。

目の前のやるべきことをこなすので精一杯。。


正直疲れきっている。


そんな方々も多いと思うが、

今回は物事の優先順位について触れてみたい。




物事を重要性と緊急性という二つの軸で

大きく四つのマトリクスに分ける、という考え方がある。


当たり前だが、その四つは次のようになる。


 ①重要であり緊急性もある


 ②重要ではないが緊急性がある


 ③重要だが緊急性はない


 ④重要でなく緊急性もない


この中で最も優先すべきなのは①であり、

最もやるべきでないのは④である。


これは誰もが理解でき、実践できていることだと思う。


ここに議論の余地は無い。


今回取り上げたいのは②と③の捉え方である。




②は日々自分を追いかけてくるタスクと考えてよい。


毎日ひっきりなしにかかってくる顧客からの照会電話や

メールボックスに届くメッセージへの対応。

友人や上司・同僚からの突発的な飲みのお誘いなど。


一方、③には一体どんなものが当てはまるか。


個人で言うと、健康管理や自己投資、資産形成、

大切な家族や仲間との時間を過ごすことなど。


企業では新商品や新規事業の創出に向けた研究開発や

マーケティング活動、人材育成など、

いわゆる長期的な視野に基づく投資活動がこれに該当するだろう。


いわゆる未来への種まきだ。


今やらなくても、すぐに問題は起こらない。


でも、今やっておくことで未来に果実を手にすることが

できるかもしれないし、ある日突然起こるかもしれない

不測の事態を回避することにも繋がる。




今日お伝えしたかったことは、

いかに③に時間とエネルギーを割くことができるかが

未来の自分を決めるということ。


「緊急性はないが重要であること」は

今の自分を将来、自分の行きたいところへ連れていってくれる。


③が大切であることを頭では十分に理解していながら、

これまでついつい②に優先的に時間を割いていなかっただろうか。


確かに、②よりも③を優先させることは勇気がいることでもある。

時には周りから非難を受けるかもしれない。


でも、そこで歯を食いしばってほしい。

それにより未来の扉は開かれる。


今の自分にとって必要なことに全力を尽くす姿勢はとても素晴らしい。


だけど、今の自分に必要なことしかやらなければ、

決して新たな可能性の扉は開かれず、何より退屈だ。




「緊急性」よりも「重要性」を優先することで、

未来に希望の種を蒔く。


それは想像以上にワクワクする試みなのである。