戦争は何があってもしてはならない。

いま、強くそう思います。

 

ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナのガザ地区(ハマス)との間で戦争が起きています。

 

相手から仕掛けてきた。やられたらやり返す。自国の威信がかかっている。自分たちの自由を守る戦いだ。

自分たちの権利を守るための戦いだ。

 

為政者は、そんなもっともな理由をつけて戦争に向かいます。

自分は戦いの前線に立つことなく。

 

さて、犠牲になるのは誰でしょう?

末端の兵士です。また昨日まで普通に生活していた、関係のない子供を含む一般市民です。

こうしている間にも、為政者が始めた戦争で、末端の兵士や市民が亡くなっているのです。

為政者が安全な場所でお茶を飲んだり、談笑したり、それらしく外交をしたりしている間に。

 

直接人を刺したり、傷つけたり、殺したりすることは抵抗があるけれど、たとえばドローンやミサイルを

使って、そこにいなくても相手をボタン一つで攻撃できるとしたら、罪の意識や、痛みへの共感などなく、簡単にできてしまうのかもしれません。そして反撃されても自分は痛くも痒くもない。ドローンやミサイルが破壊されるだけだから。

 

それと同じように、為政者は兵士を「ドローンやミサイル」のように扱って戦争をするのです。反撃されても為政者には届きません。痛くも痒くもないのです。反撃されても「兵士や市民」が被害を受けるだけだから。

 

私からしてみたら、戦争を起こしている為政者は誰も大して変わりなく、軽蔑の対象でしかないです。

 

 

 

でも、そんな「戦争は何があってもダメ」とかいうぬるい考えで、仮に一方的に侵略されたら、凌辱されたり、奴隷にされたり、殺されたりするんじゃないか? そんな当然の疑問が生じることでしょう。

 

もちろん絶対にそのようなことが起きないとは断言できません。

19世紀、20世紀のように、そのようなことが起きるかもしれない。

 

だからこれは賭けになります。

 

私は、侵略者であっても、無抵抗な人たちを相手にそこまでしないのではないかと思うのです。この21世紀に。

それよりも、戦争をして実際にたくさんの人が死んでいる事実に目を向けたいのです。夢想家といわれても。

だから「何があっても戦争をしない」に賭けます。

 

 

 

例えば身内が被害にあったら、相手をやっつけたい。仕返ししたい。そんな気持ちはもちろん理解できます。

個人間のみで事が収まるならば、「実力行使もあり」と考えることもできるかもしれません。ほかの関係ない人に全く影響が及ばないならば。しかし、実際には個人間では収まらず、事態は拡大し収拾のつかないことになるから「法」があるのです。

 

つまり、「自分には関係ないから勝手にやってて」という姿勢は、いずれ自分にも影響が出てくる可能性があるのです。

傍観者でいてはならないのです。

 

 

 

だから「戦争には断固反対」と強く心に決めています。

平和な時しか、こんなことは言えません。

実際に戦争の雰囲気の中に取り込まれると、おそらく自分も影響を受け、戦争反対の意思が揺らぐこともあるでしょう。

そんなに私は強くない。仮にその意志を貫ぬくことができてもひっ捕らえて収監されてお終いでしょう。

 

 

だからいまなんです。

戦争の雰囲気にない日本で、戦争の雰囲気を作らさせないようにしておくことが大事なんです。

走り出したら止まるのが難しいのです。

 

走り出さないことが大事なんです。