松本人志さんの件がネットをにぎわせているようです。
松本さんについては、特に話すことはないですが、最近の風潮について思うところがあります。
これってネット民が過剰に騒いでるだけの可能性はないでしょうか? それをテレビや企業が必要以上に取り上げすぎなのでは?
ネットをやらない人たち、あるいはネットでコメントをしない人たちの声は? 本当の世間の声とは?
インターネットが市民権を得てから、あまりにもネットの声が大きくなりすぎて、企業も含めそれを重大視しすぎたりしてないでしょうか。「けしからん」「けしからん」といった正論を振りかざす意見がはびこり、ネットでない実社会が過度に委縮した世の中になってはしませんか? なんだかネットのコメント投稿欄などはストレスのはけ口になっている気がします。「正しい」ことを言っていれば「いいね!」が付き、承認欲求が満たされ、さらに加速する。
多様性とかダイバーシティとか高らかに謳うわりには、ちょっと外れると袋叩きにあう。真逆の方向。
「一般的な正しさ以外は認めないぞ!」「ズレている奴は許さないぞ!」
これってある意味「いじめ」ではないでしょうか?
人に迷惑をかける、害悪になるものは、そもそも法律で裁かれる仕組みになっています。だって法治国家だから。
みんなが裁判官である必要はないと思うのです。
もちろんネットを通じた告発というもの、匿名の告発が社会を良くすることもあると思います。
実際に刑法で裁かれるべき事案が、匿名の告発によって明らかになることもあるでしょう。だから匿名性が悪だとは全く思いません。こうやって自分の考えていることを書き記すのに、匿名のほうが気が楽なのも確かです。
でも、事実もはっきりしない事象やきわめて個人的な事に対して、過激な正義感を、匿名で振りかざし攻撃するのは、嫌だなと思うし、卑怯だなとも思います。陰湿ないじめの気がします。学校とかで、だれが犯人だかわからないように、こそっと気に入らない人の上履きをごみ箱に捨てて、困っている人を見て悦に浸るような。そういうレベルの気がします。
言論の自由がある以上、発言は個人個人の倫理観に委ねられています。
残念ながら我が国のネットのモラルはこんな感じなんですね。
あと、「画一的な正しさ」ばかりを強いられる社会では、今後の発展はのぞめないでしょう。新しい価値の創造には、これまでと違う視点が不可欠で、それを受け入れる寛容さが求められるから。
自分と異なるものも受け入れる、認める、あるいは認めなくても攻撃はしない、そんな方向に社会が進んでほしいものです。