補足
島津斉彬の父、斉興は家督を長男斉彬に譲らずに、いつまでも藩主の座にしがみついていた暗君というイメージが強いが、この人こそが調所とともに薩摩藩財政改革を成し遂げた人であります。調所は優秀な経済官僚、「改革のためなら、鬼にも蛇にもなれる人」、調所を取り立てた斉興の慧眼はスゴイ。
斉興は1809年に18歳で藩主になりましたが、当時の実権は祖父・重豪が握っていた。薩摩藩が借金地獄へ転落していった最大の原因は、1833年、斉興の祖父、島津重豪が死んだときに判明した500万両の借金で有りました。簡単に計算すると今のお金で5000億円以上の金額で有りました。この借金を何とか返済する道と、財政を立てなおし、黒字化する方策を調所に立てさせたのが斉興でありました。それが今まで書いてきた、調所の1837年から約10年間の財政立て直し物語であります。
さて斉興が家督を譲るのに躊躇した最大の理由は、「欄癖(西洋趣味)が強く、重豪に似て金遣いが荒い長男斉彬に家督を譲っては、薩摩藩の財政は又すぐに元の借金地獄に戻ってしまう」という心配からでありました。だから斉彬を疎んじていた。
質実剛健、生真面目で有り、質素倹約を旨とする斉興と遊び心やアイデア、新しいものを積極的に取り入れ、西洋化に前向で、どんどん金を使う斉彬の金銭感覚の違い。この違いが家督を譲らない斉興の本心で有りました。やがて1850年徳川将軍家から、隠居を進められ、翌年、斉彬は43歳で薩摩藩主としてお国入りするわけです。つまりこういう歴史の真実の話は小説や大河ドラマではカットされるのです。
名君の誉れ高い斉彬ではありますが、尚古集成館事業や国産蒸気船の建造事業、薩摩切子、どの事業をとっても莫大な金がかかる事業でありました。そしてそ事業のすべてが成功したわけでもございません。しかも斉彬の頭には、「自分が、こうしていろんな事業に莫大な金を使えるのも、父斉興と調所のおかげで有った」という意識はなかったようであります。
こうしてみると斉彬は西郷が崇拝するような名君だったのかという疑問すら出てまいります。歴史の真実は、薩摩に当時莫大なお金があったから、斉彬は明治の近代工業地帯を薩摩の磯地区の一帯に作ることができたのだということです。金が無けりゃ、何も出来ないのも真実であります。
財政立て直しによる(借金踏み倒し事件・黒砂糖専売・密貿易)による、お金の蓄積がなかったなら、いくら優秀な斉彬と言え、何もできなかったのは明白であります。又、父が斉彬に家督をなかなか譲らなかったからこそ、斉彬が藩主としてお国入りする段階ではお金が貯まっていたのも皮肉な事実であります。もし調所が本格的に財政立て直す1837年ごろに斉彬30歳で着任しておれば、借金踏み倒し事件も、黒砂糖の専売も密貿易も調所は実行できなかったことでありましょう。つまり、斉彬が許可しなかったかもしれません。歴史とはまことに不思議なめぐりあわせでございます。歴史を見る目が変わりましたか。
なかなか家督を譲ってくれない父親にイライラして、徳川幕府に薩摩藩の密貿易の実態を詳細にチクった犯人が斉彬、そのおかげで、父はとうとう隠居に追い込まれ、やっと43歳で晴れて藩主になれた斉彬ではありましたが、そのことが調所を死に追いやったのも又事実。
1848年、江戸の薩摩藩江戸屋敷で服毒自殺をはかった調所のその時の気持ちはどうだったのでしょうか。斉興の命で財政立て直しに着手したものの「そのうち、欄癖の強い息子斉彬が藩主になるだろう」という予想は十二分についていての調所の財政立て直し策ですよ。「こんなバカ息子のために命を懸けて蓄財に励むなんて馬鹿らしい」とは露にも思わなかったのでしょうか、この真実は今では誰にも判りません。
お願い
小学校5年生以上の優秀な子供さんやお孫さんにこの話を読み聞かせてやってください。
「貴方が信じている真実や正しいと信じていることは実は間違っているかもしれない」と教えなければいけません。この訓練こそが「自分一人で真実にたどり着く方法」の訓練になります。「先生が学校で教えていることは間違いかもしれない」と気づかせないといけません。
戦後75年、日本はアメリカによって「教育植民地化」されました。偉い人のいう事は正しい、正解は一つ。答えは〇か×かという現在の日本の教育はアメリカの押し付けです。優秀な日本人をこれ以上、優秀にしない教育法です、「偉人と言われる人でも良いことも悪いこともやった」と教えることが肝要です。そういう話を次に書きます。薩摩わがまま親父