これに対して大久保、伊藤博文や岩倉具視らは「廃藩置県」と言う法律改正一つで全国の大名たちの借金を棒引きにして英雄になった。一言でいえば、かって仕えた藩主たちの機嫌を取っただけではありませんか。自分の友人知人の便宜を図る今の自民党の安倍政治とどこか似ていませんか?いやそのモデルが既にここにあったのかもしれませんね。
③果たして調所と西郷たちどちらが偉人であり、どちらが大悪人なのでしょうか?当時の西郷たちに民主主義とりわけ多数決の論理を教えたのはイギリス、西郷たちはまんまとこれに騙された。
もし、西郷たちが自分たちの政治家としての生きざまの手本を明治維新の20年前に死んだ調所の事件に学んだならば、その後の日本の政治家の姿はずいぶん変わっていたことでありましょう。
そして今の政治家の姿はこの明治維新の時の長州の伊藤博文たちの姿が見事に踏襲されているのです。
何かがあれば、法律を変えればいい、税金が足りなくなれば5%の消費税を8パーセントに上げればいい、多数の議席を持つ政党のやることはすべて正しいではあまりに短絡的すぎる。簡単すぎる。だから日本は良くならない。今後はだんだんだんだん悪くなる、それこそが当時のイギリスと今のアメリカの狙い。
最後に調所の話にもう一度戻りましょう。
借金踏み倒し策ばかりでなく、広郷はそれに続く薩摩藩の財政と経済の建て直しにも成功している。借金体質の改善に注力する一方、甲突川五石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行い、殖産や農業改革も実施。専売化した黒糖のみで、230万両超の利益を出したり。並行して、高島流砲術採用など軍制改革にも成功している。また苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)では、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて、密かに祀られ続けていたという。
⑩また広郷は、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。
一方、広郷の死後藩主となった名君とされる斉彬であるが、斉彬時代になってからの方が、領民に対する税率は上げられていた。
広郷や斉彬の死後、斉彬派の西郷隆盛や大久保利通が明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は父・斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり、明治政府も弾劾出来なかったので、調所家への風当たりが一層強くなったものと考えられる。
西郷は明治10年西南の役で自害、一時賊軍として名誉をはく奪されたものの、明治22年大日本帝国憲法の発布の折に正3位を追贈され復権、明治31年には上野に銅像まで建てられているが 調所の方は何もなし、その迫害は大正・昭和の敗戦後まで続き、子孫は調所の名字を『ちょうしょ』と役所に届けて、調所家との関わりを否定したりと それはそれは苦労したとか。
『子孫に迷惑がかかるということを覚悟してもなお、国のため郷土のため国民の為に自分一人で悪事を背負いこみ、露見すれば自分一人で責任を取る』、これだけの肝の座った政治家が現在の日本に何人いるでしょうか。
⑪藩のため自らの命を懸けて借金を事実上踏み倒し、財政改善計画を成し遂げ、極悪人の名を一人で背負いこんで73歳で死んでいった明治維新の影の立役者、調所広郷、通称笑左エ門の銅像はわずか一メートル余の大きさで甲突川のほとり、天保山公園入口に立っております。鹿児島観光に来られた方々もまず訪れ無いという明治維新の立役者調所広郷の一席、ちょうど時間となりました。また口演いたします。
葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺。法号は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所は鹿児島市内の福昌寺跡にございます。 薩摩わがまま親父