前ブログの続き。

 

チェックアウトを済ませた後、

宿からクルマで10分ぐらいの所にある

「舞鶴引揚記念館」へ。

私の母の世代なんかは、

「舞鶴」といえば真っ先に

「引揚桟橋」をイメージするらしく

当事者じゃなくても

悲しい記憶につながるようです。

 

というのも、

戦後大ヒットした曲

「岸壁の母」と「異国の丘」により

舞鶴は広く知られるようになったから。

「異国の丘」は、

シベリアに抑留されていた兵士が、

遠い祖国への想いをつづった歌で、

実際に兵士たちの間で歌われていたそう。

一方の、

「母は来まし~た~♪」と

明るい調子で始まる「岸壁の母」は、

私も知ってる曲ながら、

詩に込められた深い思いは、

ここ舞鶴に来て初めて知ったのでした。

戦地から引揚船で無事に息子が帰って来るのを

舞鶴の港の岸壁で待っていた母たち・・・

明るいメロディーだったのは、

辛く悲しい気持ちを封印し、

自分を奮い立たせるように

希望や願いを込めたからだったんだなぁ。

 

館内には、

シベリアの過酷な抑留生活のことや

全国から寄贈された

引き揚げに関する貴重な資料が展示されていて、

その中には、

世界記憶遺産登録されたものも。

目を引いた展示物、「白樺日誌」は

紙の代わりに白樺の皮を使い、

空き缶を加工したペンで、

煤を水に溶かしたものをインクにして

日々の生活や望郷の思いを

和歌に綴ったそう。

これらは、厳しい所持品検査を

幾度もくぐり抜けて、

奇跡的に没収を免れたといいます。

 

我が子を想う親の気持ちは、

歌や詩で綴られた以外に、

身につまされるような展示物もありました。

資料のひとつひとつに

込められた壮絶な状況や思いに触れて、

今の日本が平和であることに

心から感謝する自分がいたのでした。

 

途中、学芸員の方から

展示物について話を伺いながら

およそ1時間強、舞鶴の歴史を学びました。

引揚記念館の近くにある丘の展望台からは、

のどかな農村の景色が眺望でき、

湾は凪いで穏やか、その周囲には

美しい民家と畑がパッチワーク状に点在。

右側に目を向ければ、

切り出された丸太と白い煙が特徴的な

木材工場が稼働中で、

活況を呈しているこの場所に、

かつて引揚船が到着した桟橋と、

母国の一歩を踏みしめた引揚者が

故郷に帰る手続きなどを行う

援護局庁舎があったそう。

当時の様子を描いた絵が

展望台にありました。

引揚船が入港するたびに

大勢の舞鶴市民が駆けつけて、

引揚者を全力で歓迎したといいます。

その引揚者数は13年間で

66万4531人。

 

知らなかった歴史に深く触れ、

平和の尊さを実感した時間になりました。

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