『ノア 約束の舟』感想。アニマルライツな異端の匣舟。 | まじさんの映画自由研究帳

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オイラはキリスト教徒でもなければ、ユダヤ教徒でもない。どちらかと言うとアニミズムに近い思想を持っている無神論者であるのだが、海外の思想を理解する目的で、新約聖書は読んだし、旧約聖書は創世記だけは読んでいる。確かに読んだが、あのファンタジックな話が史実と思っているような、カトリックでもない。

元々ノアの方舟の話は「悪い事ばかりしてたら神が怒って滅ぼしちゃうから、信仰心を持って、いい事しなさいよー」と言う説経話だ。そんな話が史実であろう筈がない。旧約聖書は比喩や創作によって、人々への教訓を解いているというのが、オイラの解釈だ。
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しかしながらカトリックの宗教美術は嫌いではない。宗教絵画は信仰心により美しい技法を生んだ。映画でも『十戒』や『天地創造』『ベン・ハー』は、様式的美学で描かれた名作だ。宗教的なテーマを持つ映画には、常に様式性のある宗教的美学で見せて欲しいと願っている。

つまり、アンチクライストのオイラは「おお、コレは美しい芸術映画だ!」とか、「ぐぬぬ、コレは否定できない!」と思えるような映画を期待していた。

だが『ノア 約束の舟』は、残念ながら、期待するものは得られなかった。

まず、人類の起源となる方舟がカッコ悪い!きっとカトリック教徒でなくとも、あんな不潔そうなイカダは見たくはなかったであろう。
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そこに美学はなく、様式性のカケラもない。まさかのリアリズムだ。
リアリズムは、神の不在を描く手法の一つだ。神秘的表現を排除し、現実的な部分から神の存在を見出す。又は、神の存在を否定する時にも用いられる。『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『最後の誘惑』『パッション』は、いずれも新約聖書ではあるが、神の不在を描き、奇跡は起こらない。リアリズム神話としての傑作である。(『パッション』では奇跡が描かれているが、アレはオチだ。続編は『リベンジ・オブ・クライスト』じゃないかと思ったw)

しかしながら、この映画はリアリズムで描きながら、神は不在ではなかった。
神の御技をバンバン使ってくる!
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様式的美学のない神秘の表現は、単なるオカルトに過ぎず、リアリズムの中では違和感を感じてしまう。

まず、この映画に神を賛美する様式がない。神の慈悲とか愛とかもない。それどころか、神をリアルに悪い存在として描いている。この映画には、番人と呼ばれる岩のゴーレムのような元天使たちが登場する。
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なるほど、ノアの家族だけでは、巨大な方舟の建造は無理と見え、頑強な彼らが手伝えば、確かに作業ははかどるだろう。とても都合の良い解釈だが、まぁ、意図は汲める。禁断の果実を食べる罪を犯したアダムとイヴが楽園を追われ、そこに同情した天使が地上に降りて、人間に手を貸した事で裁かれ、醜い岩の塊と化したという。ここでの神は裁くだけで、むしろ慈悲をかけるのは、その神に裁かれた元天使たちの役割になっていた。

更に、人間を裁く為に、人類を洪水で浄化させようとするだけにはとどまらず、舟を作らせたノアの子孫が産まれぬようにと企む周到さ。挙句の果ては試練だったと抜かして言い訳しやがる始末!

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原作では別の章に出てくるトバルカインが、信仰を持ちながらダークサイドに堕ちた者として、ノアの行く手を阻む。悪として描きながらも、原作にある「信仰という正義の定義」をあやふやにしているので、トバルカインは悪人には見えなくなっている。強いものが生き残り生を謳歌する事こそ、人の生まれた意味だと解く。

一方ノアは、罪深き人類に裁きが下れば良いと考えている。むやみに動物を殺す奴らは、殺しても構わないという、とんでもない思想を持っている。地球の動物を守る為なら人類は滅んだ方がいいというエコテロリストだ。そんなシー○ェパード野郎に、共感なんてできる筈もない!
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この映画でのノアが持つ宗教観は、カトリックのそれとは大きく異なる。
ノアが子供たちに天地創造を語るのだが「光あれ」から始まる聖書の言葉に乗せて、ビッグバンに始まる宇宙の誕生を見せる衝撃の映像が始まった!銀河、太陽系の成り立ち、地球の誕生を描き、生命の誕生から魚類→両生類→爬虫類→哺乳類への進化を見せる。猿まで進化した所で猿の見た先に、光り輝くアダムとイヴの姿を見るのである。
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猿から人間への進化を直接見せない事で、何かに気を使っているのだろうが、そもそも原作では、天動説を唱えており、神は6日間で世界を作ったと主張している。聖書と進化論は相容れない理論なのだ。ノアは聖書よりも進化論を信じていることになる。

つまりノアが信仰しているのは、聖書の神ではない。
ノアは神をゴッドとは呼ばずクリエイターと呼ぶ。クリエイターとは創造神の事だ。多神教では創造神と全能神が別に居るため区別するが、旧約聖書の神は唯一神であるから、クリエイターとは呼ばない。

また、ノアの家系は、神秘の力が宿る蛇の皮を腕に巻き付け、息子を祝福するが、コレはユダヤ教の儀式を模したものだろう。だが、聖書において蛇は、神に呪われた悪の象徴である。
エデンの園に於いて、最初の人間アダムとイヴは、神の祝福を受けながら幸せな暮らしをしていたが、イヴは、蛇にそそのかされて、禁断の果実に手を付ける。禁断の果実の味を知ったイヴはアダムにそれを分け与え、二人は楽園を追放される事になり、蛇は神に呪われる。
聖書に於けるの禁断の果実は、性的な快楽を指す。つまり、蛇は無垢なイヴを誘惑し通姦した間男であり、悪の象徴となったのである。
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その蛇の皮に神秘の力が宿るとすれば、それは聖書の神以外の力となる。つまりノアが信仰しているのは、蛇神という事になる。いや、蛇の子孫とも取れる表現もあった。

コレは、人間に知恵の実を授けた蛇は、悪魔ではないとするグノーシス主義の解釈によるものである。
グノーシス主義は、聖書の解釈を巡って教会に異端とされた思想で様々な解釈が存在する。堕天使を信仰の対象とす一派や、新約聖書に載らなかった使徒の福音書を聖典とする一派もあり、その多くの書物は教会により禁書とされた。ヨルダンなどで発見された死海文書は有名だが、そのほとんどは、禁書とされたグノーシス主義の経典である。
この映画には、人口削減や出生のコントロールなどを含む事から、グノーシス派の中でも危険思想を持った、イルミナティの思想が色濃く出ている。イルミナティは、世界統一国家を理想とし、世界の一括管理を掲げる思想団体である。
この映画に、イルミナティの思想を持ち込んだのは、地球の為に人類を削減しても構わないという、危険な思想が根底にあるようだ。だとしたらこの映画は、キリスト教と相反する思想で聖書の物語を描くという、まったくもって悪趣味な作品だ。
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この映画でオイラは、ダーレン・アロノフスキーも、シー○ェパードの支援者ではないかと邪推してしまった。

オイラが見たかったのは、神秘表現を排除した、リアリズムの聖書世界だ。原作と整合性を取りつつ科学に基づく視点で作られた映画だ。
直接的な神の啓示はなく、自然の変化などから読み取り洪水を予見するノアの姿だ。そしてラストは雨が止み、ノアの舟が陸に着くと、大小様々な方舟が無数に漂着している光景。生き延びた人類は、生きている事を喜び合い、文明の再建に向け立ち上がり、明るい未来予感させる、そんなエンディングが見たかった。そもそも一つの家族だけ生き残るなんて、その後ヤるのは、近親相姦だろ!原作もこの映画も、その点だけは否定していない。フケツです。