『それでも夜は明ける』感想。黒歴史を描く映画の貢献。 | まじさんの映画自由研究帳

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アメリカには開拓時代から奴隷制度があった。アフリカで捕まえた黒人たちを、大量に奴隷として使役し、労働を彼らに強制した。過酷な労働だけでなく、その生死も所有者の権利とされた。言う事を聞かぬと鞭で打たれたり、所有者の欲求を満たす為、性的な虐待を受けたりする少女もいた。

開拓が落ち着き、国が安定すると、奴隷の需要が減り、多くの奴隷が解放された。この解放は、人道的な見地からではなく、彼らに与える仕事もなくなり、養う必要性がなくなったからである。解放された奴隷を自由黒人と呼び、最低限の地位を与えた。

この様に北部の州では早々に奴隷制度が廃止されたが、農業を主体に営む南部では、その労働を奴隷に頼り、奴隷制度は根強く残った。

南部は奴隷を必要としていながら、米全土での奴隷の需要が減った為、アフリカからの奴隷貿易が減り、奴隷の価格が高騰した。そうなると、奴隷商人たちは、わざわざアフリカから連れて来て、英語を覚え込ませる事よりも、北部の自由黒人を捕まえて売り飛ばす事を選んだ。よって、自由黒人であっても、不当に奴隷として売られる犯罪が横行した。

一度奴隷として売られると、戻って来る者はほとんどいない。北部には奴隷制度がなくなってはいても法制化された人種差別があった。黒人の失踪事件に関心を寄せる者などいなかった。連れ去られた者の殆どは、奴隷のまま死んで行った。

この映画の主人公の様に生還できた者は稀であった。その僅かな生還者が、奴隷の現実を北部で伝え、初めて人道的な奴隷解放運動へと発展したというのが、アメリカの奴隷解放の歴史である。

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本作では、この負の歴史を正面切って描いている。騙されて奴隷となった男の目を通し、凄惨な奴隷への虐待を見せている。

この映画には、アメリカ白人にグッドマンは登場しない。負の歴史に美談は必要ないからだ。負の歴史から、学べる事は大きい。映画は、それに貢献できるメディアである。負の歴史を語る上で、大切なのは複雑にせず、美化してはいけない事だ。仕方なかったと、時代のせいにしてもいけない。この作品は至ってシンプルにまとめていて別の視点を一切挟まない。主人公の視点を通してありのままの過去を学び、我々は未来への教訓を得るのである。これこそが、映画ができる大切な貢献のひとつなのである。


この映画では、徹底したリアリズムで描かれ、カメラワークひとつにもこだわりを感じた。本作はアカデミー作品賞と、助演女優賞を受賞しているが、撮影賞や編集賞を撮るべきはこちらだったのではないかと思う。『それでも夜は明ける』では、カメラワークで物語を語っているのに対し『ゼロ・グラビティ』では、技術的なインパクトでしかない。撮影技術賞があれば、間違いなく二分していただろう。

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衣装や小道具に至るまで、細部へのこだわりも見える。バイオリンの弦は、現在、ナイロン弦やスチール弦を使うのだが、この映画では、羊の腸で作ったガット弦を使っていた。また、主人公がバイオリンで奏でる音楽はクラシックではなく、アイリッシュ音楽が多い。自由黒人でありながら、アイリッシュ系アメリカ人を喜ばせる音楽を演奏するのも、当時のアメリカの差別社会を象徴している。

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主演のキウェテル・イジョフォーは、今回も安定感のある真面目で誠実な男を演じており、はまり役だ。極限状態の中でも、芯を崩さない見事な演技だった。主人の命令で女性を鞭で打つ時のやるせなさと、自分が救われる時に、その彼女を救えない無力さに、心をえぐられた。

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残忍な農園経営者をマイケル・ファスベンダーが演じているのは意外だった。実直な役が多かった彼だが、今回はどうしようもない狂人とも言える独裁者を熱演している。新鮮だったが、それがまた、何をするかわからない危うさがあった。彼の演技の幅に感心した。

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ルピタ・ニョンゴは、この作品で、助演女優賞を受賞した。その演技は執拗に虐待される奴隷を身体を張って演じている。主人公に、殺して欲しいと懇願するシーンは、鳥肌が立った。

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ベネディクト・カンバーバッチは、残忍ではないものの、奴隷を使う側の一般的な男を演じている。決してグッドマンではない、利己的でグレーな感じがよく出ていた。

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僅かな出演だが、ポール・ジアマッティの卑下だ奴隷商人は、ハマり役だった。いやらしいニヤニヤ笑いがとてもいい。こちらも思わずニヤニヤしてしまった。

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そして、クズっぷりが最高なポール・ダノ。もう、出て来ただけで、ヤラレフラグだ。去勢を張って登場し、泣きべそかいてキャンキャン吠えて逃げて行くキャラクターが、似合い過ぎていてたまらない。


アメリカが過去を精算する作品において、豪華な俳優陣の、見事な演技がみられた。

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だが…。ブッラド・ピット。

お前はダメだ!


彼はこの映画のプロデューサーでもあり、自分で金策してこの作品を作ったという苦労もあり、この映画への崇高な思い入れがあったのはよく解る。だが、アレはない。


ファスベンダーと口論となり、奴隷の扱い方を非難すべきシーンで、奴隷制度の批判を始めてしまった。全くもってお寒いシーンだ。明らかな現代的価値観で語り始める。このシーンには、はっきり言って冷めた。カナダ人という設定の免罪符があるにせよ、当時の白人が、奴隷制度を批判するのは、いかにも不自然だ。オイラはてっきり未来人が現れたのかと思った!


我々観客が汲み取るべき作品のテーマを、映画の登場人物が論じてしまったのだ。蛇足だ。あそこに現れたのは、カナダ人の大工ではない。間違いなくブラッド・ピット本人だった。

このシーンが、この作品をチープなものにしているのが、とても残念である。


プロデューサーが、こういう映画で、唯一のグッドマンを演じちゃダメでしょ。自分をプロデュースするなら、娯楽映画でやりなさい!!