情報の消費を楽しむのは嫌です。 | 誰もが、ふと、いい感じになれる。

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自らへの約束
偉そうな文章は記さない。
教えるというような意識は排除する。
やみくもに啓発を意識しない。

自分の主張の根拠として、「だってあの人が言ってたんだも~ん」 「だってみんながそう言ってたもん」 って言いたくないですよね。

 
 パーソナルコミュニケーションからマスコミュニケーションへの移行が何を生むか、


 社会学では大きく2つの思想があったようです。


 1 豊富な情報を入手した受け手が合理的な世論を形成することに寄与する。

 2 情報過多によって受け手が自律的な判断を下すことを放棄する。そして、与えられた情報の一部を消費して楽しむようになる。



 以前も似たようなことを書きましたが、私は 2 の『与えられた情報を消費することを楽しむ』の事態に陥っていました。


 ブログなりで誰かに提供したいから学ぶようでは、W.リップマンの指摘するような偏向疑似環境の支配(環境の不正確なコピー、又は鹿田尚樹さんのいう二次情報の奴隷)状態です。



 学んだことを書いてるんじゃなくて、その日たまたま手に耳にしたことをはっしょって書いてるだけ。


 誰か一人の本一冊の主張をまとめても、それはその誰かの主張でしかないわけですよね。


 受け売りじゃなくて、 [to be] [to do] [to meet] [to study] [to have] を原点にして書くようにします。


 それが 1の豊富な情報を入手した受け手が合理的な世論を形成することへの寄与なんでしょうかね。


 まんま人に伝えるなら、「だってフリードマンが言ってたんですもん。」と平気で言う国会議員と一緒ですからね。



 教えたい願望は誰でもあることを学びました。




 小飼弾氏(1969年生まれ。ライブドアの取締役最高技術責任者を経て、オープンソースプログラマーとして活躍中。) の昨年8月号宝島studyに記載されたコラムを一部抜粋します。

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 「ウエブ以前のビジネスモデルは、情報を与える側が対価を受け取っていました。しかし、現在、百科事典サイトに書き込みをしているのは、皮肉にもかつてそのことで対価を受け取っていた人たちです。」 「人は情報をあげたがっている」

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