寒くないか | ☆みかっちの「しあわせ感性を高める♡」ブログ☆

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人生のどんなシーンをも、十分乗り越えられる生命力。
あなたには備わっている!
生命力こそがすべての難問解決の秘訣♡



夏に書いた記事、
寒くなったらもう一度読んてみようと
思っていました(笑)
ほんものに触れる事で、
頑なな自我意識が溶けていく。
そんな経験の後だからこそ、
感じるものがまたありました。






先日、会社でとある研修が行われた。みっちり90分。
何を学ぶかというと……「シンパシー」と「エンパシー」の違いについて。

お客様に届ける言葉の中に、どれだけ愛を込められるか、というものなのだった。

「愛」といったとたんに、なんだか嘘臭くなったり手垢がついたり、愛という言葉に、最近アレルギー反応を起こしていた私は、なんともいえない複雑な気持ちで参加した。

「お客様のPCが壊れました。はい、美香さん! なんていいますか?」
「さようでございますか~」
「ブーーー!! ぜんぜんあかん!」


「自分のPCが壊れました。はい、美香さん! どんな声が出ますか?」
「うわ、マジでーーーー! どないしょう~」
「そうです、その言葉! 不安、怒り、やるせなさ、……そんなものを抱えてお客様は電話をかけてきます」

シンパシーとは、同情。エンパシーとは、共感や思いやり。と、直訳されることが多いのだそうだ。
諸説あるけれども、ここではそんな感じで極端に捉えて欲しい、とトレーナーは言う。

シンパシーも共感と訳されることもあるのだけれど、軸がどこにあるのかというと、自分自身。あくまでも自分から見た、世界。
「かわいそう~」
というガラス張りの向こうから見られた、冷ややかな世界である。
エンパシーは、いわゆる「恕(じょ)」の心に基づいた共感であるのだそうだ。

「しあわせな人生の実現をサポートする人材養成講座」で、耳にタコができるほど学び、それがすべての問題解決の根幹であることを学んできた私だと自負しているのに、うまく自分の中で消化できていないと改めて気づく。


軸が相手にある表現とはなんぞや?
「大変でしたね!」
「よくここまで来られましたね!」
……?


概念がわかっても、例えばというような言い回しを習っても習っても、習うほどに、はっきりとした違いがますますわからなくなる。反対に、うそっぽくなっていく。


思考では理解できるけれども、「あっ、これか」というような本質がつかめそうでスルリと逃げていく感じ。
「私って冷たいのかな(笑)」
そんなことを思いながらも、対応には良いとされる言い回しを使って顧客満足度、成績は上がっていった。でも、何か、何か釈然としない。


久しぶりに澤谷先生とお話して、そのことを伝えた。
澤谷先生は、スカイプの向こうで微笑んでいるような声で、
「今、それに通じるようなことを養成講座でやっているよ」
そういいながら、澤谷先生はこう続けた。


「乕澤さん、シンパシーもエンパシーも大事だよ」
それをきいて、ハッとした。
その言葉の中に、いろんな雑念を包括したようなのびのびとした自由な心のようなものを感じたからだった。


考える中で、シンパシーはだめで、エンパシーは良いという、凝り固まったものになっていたことに気づいた。そこに、柔軟なものが生まれるはずもない。


風通りの良い、ちょこっと顔をだした青空のような気持ちになった。
先生は続けた。
「どう違うのだろうね……例えばシンパシーは、言ってみれば自我意識の延長だから、自分の殻の中から逃れることはできないけれども、エンパシーとは、“無私”という言葉が示す、まさにそういう世界なんじゃないかな?」

「でも、先生、自分からはどうやっても逃れられませんよね。無私って、本当に一体どういうことなんでしょう? いまさらなんですが、何だかわからなくなって……」

「自分から逃れられないというのは、自我意識ということ意識から逃れられないということだね、自分の自我意識のなかでもがいている。自我意識のなかで、もがき苦しんでいる人は沢山いる。乕澤さんがいうところのシンパシーとは、いうなれば自分が損をせず得になることを考える感覚ですが、自分を守ろうとするのが自我意識で、エンパシーとは、それを抜け出して、そのままの自分で自在にはたらく心を持つということだね。無私とは私を無くすることではなく、よく自在にはたらく心を得るということ……」

「自在に働く心……」

「そう。すなわち、思惟という世界のことだと思うよ。思考の世界ではない。シンパシーが冷たいと、ここで表現されているのは、どこまでいっても思考でしかないからだろう。自我意識の中で考えた結果、辛そうだ、と……」

「相手の心に響き、働きかけるのは、思惟の世界だ。自我を超え、自己の心を自由自在に飛び回らせて、その人の下に行き、そして、声をかける。思考をつかって思惟の世界を探ってみても、まるで風船のなかにいるように自我の殻の中にいる。思惟の世界(本当に感じた本質)を、何とか伝えたいと思い、思考に何とか落として表現しようとするから、心に届くのではないかな。まずほんものに出会い、ほんものにふれなくては……」

「愛」
ふと、思いがけずに、最近毛嫌いしてきた言葉が思い浮かんだ。
こんなタイミングでこの文字がアタマに浮かぶなんて……。
その文字から伝わってくるものは、ひねくれたものではなかった。
澤谷先生の本質を伝えようとする思いが、熱く伝わってきたからなのかもしれない。


私の嫌いだった「愛」という言葉は、それこそ、自分自身の自我意識でとらえた愛だった。自分の心が自在になっていくと、きっと、同じ事象を見ても沢山の概念が変わり、そして結果自分が変わり、人生が変わっていくだろう。


スカイプを切った後、ふと最近知った「雪女の銀衣伝説」という物語が思い出された。


ある吹雪の夜、家路を急いで雪山を降りていた茂吉という男。
その道の途中、茂吉は髪の長い銀色の衣をまとったとても美しい女性と出会った。
女はすがるような眼差しで茂吉にこう言った。
「足を挫いてしまってもう一歩も歩けません……どうか私の家まで連れて行ってくださいませんか?」
茂吉は女に家はどこか? と尋ねると、女は黙って道のない真っ暗な森を指差した。
「よしわかった」と茂吉は力強く答え、背負っていた籠の中に女を入れて、山の奥へと歩いて行った。
だが歩いて行けども行けども、雪が深まるばかりで家なんて見えてこない。
茂吉は尋ねた

「わしは道を間違っていないか?」

女は無言でうなずく。女は待っていた、茂吉が疲れ果てて自分を投げ出すのを……。

そう、女の正体は、男を人里離れた山奥に誘い出し、精魂尽きた所で人の魂を喰らっていた雪女だった。

やがて茂吉の歩みが遅くなり、しばらく黙っていた茂吉の口が微かに動いた。

「娘さん……」

女はそれを待っていたかのように、口元に笑みを浮かべて答えた。

「はい……何でしょう?」
茂吉は息を切らせながら絞り出すような声でこう言った。

「寒くないか?」

茂吉の意外な問いに女は戸惑い、言葉に詰る。
茂吉は寒さで感覚の無くなった足を必死で踏み出しながら、さらに続けた。

籠の中はきつくないか?
腹は減っていないか?
もう少しの辛抱だから頑張れ! 頑張れ!!

女は「はい」としか答えなかったが、次第にその声は弱くなり、遂には聞こえなくなった。

心配になった茂吉は足を止め、籠の中をのぞいたら……中には女の姿は無く、変わりに大量の雪が銀色の衣に包まれるように入っていた。

茂吉の暖かい真心が、雪女を本来のあるべき姿に戻してしまったかのように……。









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