学生時代は、生徒会や寮長といった「執行部」という役割をさせられることが多かった私。
「こうあるべきである。」「それはおかしい。」と言った自分基準の正義感がいまでも顔を出す時がある。
高校の時は、「美香ちゃんの言っていることは正論だけど・・・でも・・・。」とよく言われた。
後ろを振り返ると、気持の上では誰もついてきてくれていなかった。
以前、澤谷先生に
「”水清ければ魚棲まず”というように、リーダーと言うのは、濁りを包括できるようでなければならない。」
と、言われたことがあった。
この間から、どんなに言葉をまるくしても、その「純粋性」という一つのエゴが伝わってしまう。
沢山の人生経験をしてきたはずなのに、やっぱり自分のもつエゴの形というのは現れてくる。
でも、それをエゴだと感じれるようになっただけでもちょっと進歩かな?(笑)
どう表現するか、どう行動するかで相手への伝わり方が全然違ってくる。
そこに「恕」(相手を自分と同じように見る心)の心がなければ、やっぱり「押し付け」になる。
相手の気持ちになってみた時に、初めて自分のエゴの枠を出る。
極端な話、ただ「感じてあげる」だけで、目の前の人は自分でスイッチを入れて歩き始める事もある。
「何とかしてあげよう。」こんな気持ちでまだまだ目の前の人と対峙していることに気がついた。
何度も何度も言い聞かせて、わかっているはずなのに、自分の中の「正義」がいつでも出番を狙っている。
ふと・・・澤谷先生の言葉と笑顔が浮かんできた。
「紅葉してい赤くなっている木は、となりの黄色の葉っぱの木に”赤くなったほうがいいよ”と言うだろうか? 赤は赤、黄色は黄色。だから綺麗なんだよね。緑もいいよね。」