大塩平八郎『檄文』 | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

この時期になると、私は大塩平八郎の檄文を読み返します‥大塩平八郎が檄文の立札を大阪近隣の村々に立てる‥大塩平八郎(元大坂東町奉行所与力・陽明学者)が、天保の飢饉で苦しむ民衆の救済と腐敗した江戸幕府の改革を訴え、門弟の武士や農民ら約300人を率いて蜂起する‥檄文はちょっと長いので簡略しますが(詳しくはネットで検索してみて下さい)冒頭こんな文章で始まります、、『天下の民が生活に困窮するようでは、その国は滅びる。政治をするに足る器でない小人どもが国を治めれば、国に天変地異や災害が起こるとは、昔の聖人が深く天下後世の君子や人臣に教戒したところである。民衆が苦しんでいるにも関わらず、政治家や小役人どもは万物一体の仁を忘れ、私利私欲のために得手勝手の政治をし、そのうえ勝手我儘(かってわがまま)の法を作って、国内の遊民ばかりを大切にし、自分たちだけ何不足なく暮している。』‥1837年2月、大塩平八郎の乱は数時間で幕府によって鎮圧されてしまいますが、その後越後での生田万の乱などの民乱が続発、天保の改革促す結果となった‥同年6月モリソン号事件が起きて、その後、蛮社の獄(1839年)アヘン戦争、異国船打払令(1842年)ペリー久里浜上陸(1853年)安政の大獄’(1859〜60)横浜開港(1859年)桜田門外ノ変(1860年)王政復古の大号令(1867年)で明治維新へと…内憂外患の日本で若者たちが議論に議論を重ねた30年間だった…とくに藤田東湖、西郷隆盛、橋本左内はこの檄文を仲間達と何度も何度も読み返していたという…与党も野党も関係ありません…『どうする若手と称される国会議員の皆さん』