椎野正兵衛衛とウィーン万博 | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

明治政府初めての万博 がウイーン万国博覧会となります( Weltausstellung in wien 1873  )1873年(明治6)オーストリアの首都ウイーンで行われた万国博覧会は、明治政府が公式参加した初めての万博でした。パビリオン出展という形で、世界に対して初めて情報発信し、後に我が国での博覧会開催のモデルになった重要な万博です。
このイベントは世界の国々、人々に対して自分たちのこと「日本」をアピールする絶好の機会であったともいえます。明治政府に対するオーストリアからのウイーン万博への公式参加要請は、1871(明治4)年2月、オーストリア代理公使よりもたらされました。万国博覧会の内容について十分な知識を持ち合わせなかった日本政府は、オーストリア弁理公使をはじめとした関係者と話合いを重ね、博覧会の主旨、参加方法や展示品の収集、分類などを明らかにし、慎重に検討した結果、国をあげて博覧会に参加することに決定した。  
ウイーン万国博覧会は、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世25周年を記念して1873年(明治6年)5月1日から11月2日までの約半年間、市内を流れるドナウ河畔のプラーター公園で開催されました。会場の広さは183万平方メートル、来場者数は約722万5千人であったと記録されています。

このウィーン万博に、西洋の技術を学び市場調査を行うため、政府はウィーン万博への参加をきめました。 その際、絹製品の伝習生として政府から抜擢され、椎野正兵衛は実弟の賢三とともにウイーン万博へ向いました。万博の出展責任者(絹織物商肝煎)として西洋文化を見聞し、市場調査の結果、日本文化の伝統技能と物つくりの技術で創り上げた和魂洋才の絹製品 の西洋における需要を見抜き、帰国後いち早く製品化しました。 正兵衛独自のアイデアでヘムステッチドハンカチーフをはじめ、タペストリー、カーテン、ティーガウン、ストッキング、 スモーキングジャケット、ネクタイ、エンブレム、扇子、帽子、ティーコゼなどを次々に製品化して輸出しました。横浜スカーフの歴史は、開港後間もない1873年(明治6年)、横浜で桐生や京都産の日本古来の絹織物を商っていた椎野正兵衛商店が、日本の絹織物をウィーン万国博覧会へ出品したことを契機に、帰国後、絹の「手巾(てはば)」すなわち、絹ハンカチーフを生産したことにその源を発します。

日本は、会場に建設された「産業宮」の東棟に展示場を設けました。入口には名古屋城からわざわざ移送した金の鯱ほことともに江戸時代の大名たちが愛した巨大な陶磁器、品川寺の大梵鐘(ぼんしょう 寺院の釣り鐘)などを出品している。高さ1.8mもの「染付御所車蒔絵大花瓶」は鮮やかな藍色と蒔絵の繊細な技術、さまざまな職人の技を結集して作られたもので人々の目を奪った。 さらに別の一角には紙で作った鎌倉の大仏の張りぼて、高さが2間(3.6メートル)もある提灯や、同じく直径8尺(2.4メートル)の見あげんばかりの大太鼓なども展示された谷中天王寺の五重塔のレプリカなども大いに人目をひいた。展示物の大部分は、日本の工芸品です。たとえば、繊維・服飾工芸のセクションでは、絹織物、刺繍、金箔織込などを展示する一方、機織の実演を行った。

また、漆器や金属器も出展されました。陶器や漆器、おもちゃなどが売られたが、その売れ行きはすこぶる良かった。これが、ウィーンっ子の間で熱狂的な反響をよんだのです。とくに人気の的となったのは日本庭園でした。その開園式は、万博開幕後まもない5月5日に行われたが、この日会場を訪れた皇帝フランツ・ヨーゼフ(Franz Josef)が皇妃エリーザベト(Elisabeth)とともに、それに親しく臨んだのです。この時フランツ・ヨーゼフに橋の渡り初めを頼んだのは、日本の博覧会事務局の副総裁佐野常民であった。その後も、日本庭園はこれを一目みようとする観客が引きもきらないありさまでした。当時のある証言にいわく「ここでは、群集が・・・押し寄せ、しかもだれもが扇だとか茶椀、あるいはその他何がしかの物を買わずには立ち去ろうとしない。・・・日本人は東洋人のうちで、もっとも文化的に高度で、好感に値する人々だとみられるようになった」のでした。

日本人気は、売店の盛況によく現れた。とくに人気が高かったのが扇子と団扇(うちわ)です。文字通り飛ぶような売れ行きで、いわば万博入場者のシンボルと化していたといいます。そのありさまを目の当たりにしたのが、折しも訪墺中だった岩倉使節団です。ウイーン万博会期中の6月3日には岩倉具視を特命全権大使とする遣米欧使節団がウィーンに到着し、4日間にわたって博覧会を視察し、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝にも謁見している。その内容は使節団の一員であった久米邦武が記した「特命全権大使米欧回覧実記」に詳細に記述されている。その報告書は、万博での和風小物の売れ行き具合について、以下のような記録を残しています。 「尤モ多ク売レタルハ、小切レト扇子ニテ維納ノ人気,此場ニ入リテ、日本ノ物品ヲ買テ帰ラサレハ、人ニ対シテ緊要ノ珍ヲ遺却セル如キ思ヒヲナシ、競フテ群リ来リ、其閙ヒ一方ナラス」  扇子や団扇は「澳国博覧会参同記要」では「一週間で数千本を売りつくした」と書かれているし、ペムゼルの「1873年ウィーン万国博覧会」では「一日3000本が売れ、需要が多いため値段が開幕当初の倍になった。日本の扇は流行になり、ウィーン中が扇だらけだった」と紹介されている。

このウィーン万博に操業まもない富岡製糸場から生糸が出品されている。椎野正兵衛もきっと会場でこの生糸を手にしていることは間違いないことでしょう…140年経った今、富岡製糸場と椎野正兵衛が再び出逢うのです…この続きはまた明日。

追記
ウイーン万博への公式参加を決めた日本政府は,1871年12月に参議大隈重信、外務大輔寺島宗則、大蔵大輔井上馨らを「墺国博覧会事務取扱」とし出展の準備を進めました。  翌年(1872年 明治5)1月には文部省の町田久成、田中芳男他が博覧会御用掛となり、2月8日には太政官正院内に墺国博覧会事務局が設置され、以降はこの事務局が中心となって準備を着々と進めていった。 また、出展へのアドバイスや通訳、翻訳等を必要となり日本に滞在していた外国人を積極的に雇用した。このお雇い外国人の中にあのシーボルトの息子が通訳として参加しておりました。このアレクサンダーシーボルトはこの後、井上馨の秘書になります。




        王妃  フランツ・ヨーゼフ一世の奥様です。


       初代正兵衛が1870年代につくったドレスガウン