椎野正兵衛と富岡製糸場 その8 | 繭家の人生こぼれ繭

繭家の人生こぼれ繭

人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

お雇い外国人たちは、幕末に来日した当初は日本人を未開の民族だろうとタカをくくって上から見ていたが、しばらく生活するうちに、日本の文化が比類なくすぐれていることに気づく者も多かった。
また、負けず嫌いの日本人の創意と知恵にも大きな可能性を見て、むしろ惚れるほどに日本人を愛する外国人が多かった。お雇い外国人は、高給を約束されたが、金儲けに目がくらんだ商人ではなかった。人殺しの好きな軍人でもなかった。自国に戻れば産業スパイの性格を持ち、アメリカやヨーロッパの植民地政策の先兵だった人間もかなりいたろうが、多くが、幕府と明治政府、民間企業、学校から招かれて来日した医療関係者と技術者、学者、法律事務などの専門家であったため、欧米の良識を持ち、誠実な人間が多かった。


ドイツから来日したエルヴィン・フォン・ベルツという医師は、日本を深く愛する理解者だったため、日本人が過去のすぐれた文化を自ら理解しようともせず、歴史を恥じるかのように捨て去ろうとする風潮を心の中で許せなかった。ヨーロッパ文明の特徴が、目の前のものづくりだけにあるのではなく、歴史の歩みの中から生まれてきたのと同じように、日本の文明と文化も深い歴史を持っている。もしそれを時代に合わせて進歩させたらいなら、着実に、ゆっくりと変化させなければならない。なぜ、日本人は、強引に過去を切り捨ててしまうのか、と。

ベルツの言葉どおり、日本人は、明治時代だけでなく、東京オリンピック時代にも、同じように破壊に明け暮れた。新しいアメリカ・ヨーロッパの映画文化、音楽文化を取り入れるエネルギーは、すぐれてたくましかった。しかし同時に、のどかだった東京の下町が、一変してむき出しのコンクリート建造物で埋め尽くされる息苦しい都市に変わったことに気づかなかった。次のバブルの時代には、すべての地方都市がミニ東京になろうと、先を争って郷土の地に培われた情緒を捨て去り、日本全土のどこへ行っても同じ駅しか見えない、日本の変化に富んだ魅力に乏しい光景に埋め尽くされた。

 
江戸時代まで、ヨローパとアメリカに比べて日本の技術的な近代化がおくれた原因は、鎖国構造そのものではなかった。ほとんどの知識は、長崎に入っていた。ところが大半の日本人はそうした知識の進歩にはあまり頓着せず、江戸時代までは、技や技術を『楽しむ』ことに知恵を絞った。しかも藩主がその楽しみを保護する尊大なまでの大名気質を持っていた。江戸時代に二百六十年続いた戦争のない時代の殿様は、殿様であればよかったからである。そのために城下の職人たちも、技を磨き、芸術の民とはなったが、お茶汲み人形のような精巧なからくり人形というロボットを実現しながら、その先へ進まなかった。メカニズムには強くとも、原理の追求、つまり科学という発想を持とうとしなかった。不思議な現象を見て、まっすぐ突進すればどこまでも事実を解明できるかという世界に、日本人は深入りしなかった。勿論そうした人間もいたが、ほとんど相手にされなかった。だからこそ、まっすぐではなく、横に広がりを持つことに悦びを覚え、衣食住の彩りを豊かにする芸術がふくよかに育った。芸術とは、合理主義から見れば、無駄そのものである。

だからこそ、奥の深い愉しみとなる。花を愛でる。和歌を詠む。琴を奏でる。茶を嗜む。温泉に遊ぶ。酒に酔う。それが何のためになる、と尋ねられて、合理的な答えがあろうはずがない。
 

静寂の中に悠然と味わう美が、人生の真髄なのである。それほど進歩を競う必要がなく、瓦版に書かれた皮肉、川柳、駄洒落、狂歌、娘見立て、評判付などで、苦労を忘れ、すっかり満足してその日を送っていた。それが江戸時代を生きた人間の、人生の楽しみ方の最大の特徴であった。ところが開国のあと、明治時代に入ると、政府要人が一気にヨーロッパ・アメリカとの競争を求める心境に陥り、国民も煽り立てられるような世界が現出した。鎖国時代の競争は、幕府と藩主によって守られる範囲の競争だったが、外国との競争では、そうはいかない。外国に対して、持たなくともよい対抗意識を抱き、それが現代まで続いている。

こうしたなかで忘れたものがある。日本人が国内の文化を守ろうとする誇りである。代わりに持ったものがある、外国に対する奢りである。

日本は山、海、河川、水の大自然に恵まれ、木々と咲き競う草花に満ちて、すみずみまで輝くばかりの器量よしなのだ。
 
この先に道を拓く知恵は、幕末から腰を上げて動き出した商人と職人、創業者の足跡、その踏んだ足の形に潜んでいる。かつてそこにあった土地の花形は今もそこにある。

最後に横浜開港当時、生絲売込だけで莫大な利益をあげた商人は数多くいたが...
椎野正兵衛だけは違っていた、絹織物商として自らが企画・デザイン・製作したのである。
日本初のメイド・イン・ジャパンが椎野正兵衛その人である。






参考文献/椎野正兵衛商店/「絹と光」クリスチャンポラック/山崎益吉/増田慶/小林公子/滝沢秀樹/坂本裕/広瀬隆