佐藤信淵と椎野正兵衛 | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

二人はペリー来航の少し前と幕末から明治中期で活躍した人です..。佐藤信淵は幕末の坂本龍馬や吉田松陰などに影響を与えた経済学者、椎野正兵衛は1859年横浜開港でシルクストアーを出店し日本で最初にシルクスカーフを作り、欧米にS.SHOBEYのロゴ入り絹製品を輸出した織物商です。この二人に共通する人は、私の尊敬する椎野秀聰さんなんです。二人は椎野さんの曾祖父にあたる人です。やあー凄いですね!!....一方私の曾じいさんは国定忠治の子分だったかも...?

佐藤信淵を知っている人って、歴史が好きな人は誰でも知ってる?..マニアックかもしれません。
ちょっと前の話しですが、甘楽町の山崎益吉先生に、椎野さんの母方の曾祖父が佐藤信淵です..山崎先生も佐藤信淵を研究していたことがあって、是非とも椎野さんにお目にかかりたいということもありまして椎野さんが来富した折りに、山崎先生宅で佐藤信淵についてお話を椎野さんとお聞きしたこがありました。いやあー話しが盛り上がって大変面白い話しがいっぱいありました..。佐藤信淵は京都から江戸に遷都して東京とすればいい..まだ黒船がやって来るまえから外国の脅威を諭し、特にロシアの脅威を言っている..佐藤信淵の海防論は坂本龍馬など幕末の志士たちにも影響を与えた..天保の改革の水野忠邦の政策ブレーンにもなっているんですよ。凄い人物なんですが、でもあまり知られていないんですね..

170年前に世界についてダイナミックな話しをしている底知れない人物である...もっと言わせてもらうならば、私は椎野秀聰さんそのもではないかとさえ思っているんですよ..。

それでは佐藤信淵について話しをいたしましょう。
佐藤 信淵(さとう のぶひろ/しんえん..明和6年6月15日(1769年7月18日) - 嘉永3年1月6日(1850年2月17日))は、江戸時代後期の絶対主義的思想家であり、経世家(経済学者)、農学者、兵学者、農政家でもある。出羽国雄勝郡郡山村(現秋田県雄勝郡羽後町)出身。通称は百祐、字は元海、号は松庵・万松斎・融斎・椿園。経済要録、養蚕要記、混同秘策など信淵の著述は300部8,000巻に及ぶとされている。

佐藤信淵については、ペリーが日本にやってくる前に日本について勉強するんですが..シーボルトの本と佐藤信淵の本を読んで日本を研究する..そして幕末を動かした松下村塾では吉田松陰が佐藤信淵の諸本をもって教えたという..高杉晋作、伊藤博文や井上馨も学んだのでしょう(椎野正兵衛は井上馨らと日本美術クラブの前身の龍池会をつくる)これもまた何かの縁なのでしょうか..。
佐藤信淵は薩摩藩の経済立て直しに尽力するんですよ..まだ西郷や大久保が子供の頃ことですが..

佐藤信淵が1830(文政13)年,薩摩藩の産業振興策について書いた 『薩藩経緯記』から水産業についての個所を意訳抜粋したい。(たしか西郷隆盛が2歳で大久保利通が生まれたばかりの年かも)


「貴薩摩藩は東・南・西の三方が外海に面し、属島も多く存在しております。特に温暖な気候を有 し海産品の多種多様なことは改めて述べるまでもありません。しかし、他藩に輸出して藩の利益 になる名産品はただかつお節だけです。それも製品が粗雑なため、価格は安く漁村を潤すほ どではありません。これは離島などでのかつお節の製法の精巧にするべきところを教えないせいです。
およそ藩の製品を上品にするには、必ずその産業に通じ巧みな者を先生として学ぶべきです。近年 伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸・奥州等までカツオを捕る漁村では、土佐・海部(阿波の海部 か 文責者注)・紀州の熊野等からかつお節を精巧に製造する者を雇って、現場で捌き製造させ、これを見習って製造するので東国のかつお節は上品で、土佐のかつお節に似ているので大いに漁 村を潤しております。ましてやカツオは気候温暖を好み暖地の産は最も美味です。それゆえ貴 藩の製品を精巧に製造すれば、真に日本一の上品になりましょう。」

「その他,イルカ・シビ・マグロ等の魚類はきわめて多く、また、いりこ・刺さば・干鱒(注.干 鰛(ほしか)の誤りか)・赤貝・塩辛・竜涎香(注.マッコウクジラを原料とする香料)等は献上品 として、世評も高いが産出量はごく少量で国益を興すには足りません。多量に産出してこそ一個 の産物といえるのです。また島々の海にはクジラはきわめて多いものの、これを獲る方法を知らぬ ためくじらを獲ることは稀です。貴藩の南海は水深は非常に深く、肥前や土佐.長州等の沖とは趣 の大いに違った海です。それゆえ松浦潟等のような遠浅の海の猟法を普及するべきではありません。」

「昔1764(明和元)年の夏,私の亡父が、南部(現・岩手県)の宮古から航海に出ましたが暴風に 遭遇、南海に6昼夜漂流しました。幸い外国船に救助され3昼夜北走の後、常陸国平潟港(現・ 茨城県北茨城市)へ到着できました。この外国船は捕鯨船でしたので、船に滞留中に手伝いをしな がら水深の深い海中でのクジラ猟の方法と、漁猟具等を詳細に写し取りました。父は後に漁村の貧 民を救うために『漁村維持法』を表わし、その書中にはこのクジラの漁猟法を記載してあります。

貴藩もこの方法でクジラを多く獲り,鯨油を搾り他国に出せば、これもまた一つの産業として栄え るでありましょう。そのうえクジラの骨は糞萱(?)に必要な優れ物です。全て海中から利益を産ま せる方法は漁村維持法に詳しく述べてあります。」
「亡父は、漁民の貧困による胎児の堕胎を防ぎ人口の減少を救うために『漁村維持法』を書き ました。此の法を施し用いて島々の民を教化すれば、人口は増加し産物も増し、砂糖はもちろん魚介類・干魚・塩漬魚やそのほかのり・わかめ・ひじき・つのまた・ところてん等おびただしく産 出されて、かならずや従来の生産額の三倍も五倍も増加することでしょう。」(この『薩藩経緯 記』は,西田哲雄編『鹿児島県の農林畜蚕水産業』所載の巻末付録による。)

薩摩藩はこうして財政を立て直し..あの明治維新の中心になっていくのです。

椎野正兵衛については..後ほど