維新後、勝海舟がこんなことを語っています。「おれは、今までに天下でおそろしいものを二人見た。横井小楠と西郷南州だ。‥‥横井の思想を西郷の手で行われたら、もはやそれまでだと心配していたのに、果たして西郷は出てきたわい」坂本龍馬も高杉晋作も横井小楠と会っています..この時代、この人に会いたい、話しを聞いてみたいと思ったら..歩いていくしかありません..それも訪ねてみたら..すれ違いだったなんて..
アポを取る手段は手紙でしかなかったんだから..思い立ったら吉日だなんて..今の時代はいい時代ですな
携帯一つ事足りますから、その代わり便利過ぎて熱意が伝わりません、やはり人とは相対して目を見て話すことが大事です。
京都御苑の近くに下御霊神社があります。横井小楠は下御霊神社のそばに住居を構えておりました。1869年1月5日宮中からの帰り、待ち構えていた十津川郷士二人に暗殺されます。下御霊神社のすぐ斜め前です..暗殺犯二人はこの境内に隠れていたんでしょう。
みなさんご承知でしょうが..坂本龍馬も1867年の11月15日に暗殺されました..坂本龍馬、横井小楠が生きていたら..明治の日本はどう変わっていったのでしょうか。
横井小楠が藩主茂昭に提出した大綱は、『国是三論』と銘打たれ、3つの柱から成り立っていました。
富国・強兵・士道 であります。それぞれ横井小楠の考えが述べてありました。
この『国是三論』は、まず越前藩で実行されますが、さらに坂本龍馬の『船中八策』にも発展していきます。土佐の後藤象二郎がこの考えをバトンタッチして”大政奉還”論に高まるのです。龍馬の海援隊の芽もこの三論の中にあります。もっといえば、三岡八郎が由利公正となって建言することになる、明治天皇の『五箇条の誓文』の原点もここにあるのです。それほど横井小楠の国体観には先見性があり、時代を先取りした…おそるべき”眼力”であるのです。
実は京都に行ったらいつも寄るところあります、お茶やさんの一保堂さん(いっぽどう)です。このお店から歩いて1分もたたないところに、、横井先生殉節の地があるのです。
創業は今から約290年前の享保年間(1717年)。近江出身の渡辺伊兵衛(わたなべいへい)が、京都のほぼ中心に位置する寺町二条に、茶、茶器、陶器を扱う店として「近江屋」を出したのが始まりです。
そのうち、近江屋の扱うお茶の品質の良さは評判を呼び、やがて、今から約160年前、弘化3年(1846年)山階宮(やましなのみや)より「茶、一つを保つように」と「一保堂」の屋号を賜りました。
ちょっと宣伝してしまいました..。
横井小楠殉節の地/交差点の向こうに見えるのが京都御所
写真の左に歩いてすぐに殉節の地があります。
明治38年頃の一保堂さんです..
高崎経済大学学長をしていました山崎益吉さんは横井小楠研究の第一人者です。先日もご自宅に伺いまして、横井小楠について話を聞いてきたばかりでした。今、先生の書いたこの本を熟読中であります..。(;^_^A