龍馬伝から富岡製糸場への道パート3 | 繭家の人生こぼれ繭

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人にも自然素材にも優劣なんかない。『こぼれ繭』と呼ばれていたものに目をかけて、愛情を持って「カタチ」のある製品にする。そこから生まれる「やさしさ」から「人やモノ」を思いやる心が生まれるのだと思います。

今夜の大河ドラマ龍馬伝は1864~65年頃の長崎が舞台ですが、幕末の頃の日本や外国で養蚕、蚕に関して何が起きていて、なぜこの時代に日本にいろんな外国商人がどっと押し寄せてきたのかを考えてみました…10年程時代がさかのぼりますが、

1855年頃、蚕の三代病である硬化病、微粒子病、軟化病がスペインに発生しヨーロッパ全土に広がっていました。フランスの養蚕業界もその難から免れることはできませんでした、リヨンとセバンヌ地方全体に広がり養蚕農場の閉鎖や多数の養蚕業者の破産がおきていました。まさに国家的な災害となっていたのです。

イタリアも絹の産地でしたが、やはり3種の病害に見舞われ、リヨンの業者を助けることができなかった。そこで彼らは、はるか東方に出かけて行くことになるのです。
中近東、ベンガル、中国そしてシルクロードの最終地…日本に到達しました。こうして横浜からリヨンへと至る新たなシルクロードが開けることになりました。
(数年前に「シルク」という映画がありました…役所広司が主演していましたがイマイチでしたね。ラストサムライの渡辺謙の役は最初は役所広司だったらしいですね…その役を蹴った後の映画でしたが、つまらなかったです。小説の方は世界でベストセラーになりましたが。)
 
日出づる処の国、日本の蚕の卵は病気に強く、フランスの養蚕を救いました。さらに日本の生糸は品質に優れていました、そのおかげで世界的な原料不足は緩和し、リヨンの織物業者は世界一の地位を保つことができました。

日本は1859年7月ついに開国しました。中国、香港、上海に住んでいたヨーロッパの商人たちは横浜に移動し、輸入のための支社を開設するに至りました。その支社が直ちにロンドンへ最初の生糸を輸出し、早くもこの年12月末にはロンドンに到着したのです。

専門家たちはその安さと中国産の絹に比べて、その質の高さに驚かされたのでした。このようなことが海の向こうで起きていたことを、まだ当時の日本人は知らなかった…当然龍馬たちも知る由もない。この時龍馬25歳。
お隣中国で起きていたアヘン戦争やアロー号事件で中国国内の混乱が生じていた。
日本の生糸を世界に出すチャンスだった...今でもよくあることですね。

もう一人の主人公である、小栗上野介は米艦ポーハタン号でアメリカに向かう(1860年11月34歳)。
1年にのぼる世界一周をして世界情勢をよく見聞してきたのでした。そして、1864年に横須賀製鉄所(造船所)をフランスと正式に建設を決めるのです。
この横須製鉄所建設が1872年の富岡製糸場への道がつながって行くのです…
それはまたの機会に。