■男性性と女性性の拒絶

 鳥飼茜のマンガ『先生の白い嘘』は、読んでいると鉛を次々と口に放り込まれるような感覚を覚える作品だ。どんどん身体が重くなってきて、最後には身じろぎもできなくなってしまう。それでも読み続けると、それが不思議と解けてきて、たまった鉛を解放感とともに吐き出すことになる。

 主人公である教師の原美鈴は、親友の美奈子の婚約者、早藤にレイプされ、女性性を拒絶するようになる。自分のヴァギナを恐れ、女性としての幸せを拒絶する。そして、また、美鈴に思いを寄せる生徒の新妻は、女性を傷つけてしまう男性性を拒絶する。それぞれ自身のジェンダーを受け入れないことで、異性との間に「深くて暗い川」をつくっている。

 

  ■「レイプ・ファンタジー」の対幻想

 早藤は合コンで知り合った歯科衛生士の玲菜をレイプし、玲菜は早藤に好意を持つにいたる。現実に起こったら「ストックホルム症候群」を疑いたくなる事象だが、しかし、「レイプ・ファンタジー」をめぐる男性と女性の対幻想を考えるとき、あり得ることだ。男性の抱くレイプ・ファンタジーは「女性は、強引な性行為を表面上は拒否しても、本当は受け入れている」という内容だ。一方、女性の抱くレイプ・ファンタジーは「男性からの性行為の強要を受け入れれば、新しい魅力的な性の世界を見れるかもしれない」というものだ。だが、この幻想は非対称で、男性は現実とこの幻想を混同し、あたかも現実であるかのように振舞うことがあるが、女性はあくまで幻想だと認識し、虚構による疑似体験で完結する。しかし、ごく稀に、男性のレイプ・ファンタジーと女性のそれが結合してしまう対幻想が生じることがある。たとえば、早藤と玲菜の場合のように。

 韓国でフェミニストから批判を浴びたというキム・ギドク監督映画『悪い男』(01)では、ヤクザの間接的レイプ・ファンタジーに女子大生が巻き込まれ、しかしやがて女子大生もファンタジーを抱くようになり、対幻想の中で女衒と売春婦の関係ができあがる。

 

  ■コントロールの檻からの脱出

 DV(家族間暴力)は、直接その被害に遭わなくても、目撃しただけでトラウマになることが知られている。早藤は、幼少期に父親からの母親へのDVを見て、それがトラウマとなった。わけても、父親からの理不尽な暴力に母親が強く抵抗しなかったことが彼の精神に影を落とし、ミソジニーと女性への過度の支配欲を生んだ。自分に害を及ぼす(可能性がある)「敵」に対抗するために、敵と同じ力を得ようとすることを「敵対者との同一化」と呼ぶが、憎悪の対象であるはずの父親と同一化した早藤は、「母親に代表される女たち」を見下してコントロールすることで、トラウマの抑圧をはかった。

 しかし、美鈴が自己受容に向かったことで、早藤がトラウマを克服する機会を得、美奈子が早藤を真に受容する機会を得、新妻は男性性を受容する機会を得る。コントロールし、あるいは牽制し合っていた関係は、美鈴の女性性の受容をきっかけに、「檻」から外へ解放された。

 

  ■「窃視者」の世界の行方

 原因は描かれていないが、三郷佳奈の兄は自室に引きこもり、妹の生活をのぞき穴から窃視することで歪んだ欲望を満たしていた。彼は性に対して潔癖な、いわゆる「処女厨」で、佳奈が男と性行為に及ぼうとするとき、自分の窃視=監視により断念させることで、小さな世界の純潔を保った。物語は完結したが、佳奈の兄のその後は描かれなかった。新妻とついにつながれなかった佳奈と、それを見て、自分がやってきたことの醜悪さを思い知った兄。兄妹の共依存が終わり、妹が自立するとき、兄もまた外に出て自立する機会を得られるだろうか。そこで「窃視者」の世界は砕け散る。

 

 男と女の間に横たわる「深くて暗い川」は、男自身の中に、女自身の中にある「深くて暗い川」よりも深くて暗いのか。そんな問いを投げかけてくる作品だ。

 

 

 

 

 

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