自分の記憶を幼少期にさかのぼっていくと、それ以上さかのぼれないような記憶に突き当たることがある。その記憶に伴う風景を「原風景」と呼んだりする。
 写真家の森山大道は、『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』で、自分の原風景は並木道の樹木だと書いていた。
 作詞家の阿久悠は、あるテレビの特集番組で、都会で育った子ども達の原風景はビル群であるのかもしれず、そういう子ども達がどう成長するのか心配だ、と危惧を語っていた。
 ある程度成長してしまうと、周囲から聞いてきた様々な情報が影響して、どれが原風景なのかわからなくなることもあるだろう。実際、僕には原風景と呼べるものの記憶がかなり曖昧だ。
 さて、精神分析で「原光景(primal scene)」と言うと、それは子どもが目撃したという両親の性交場面のことを指す。最初はそれを事実だと捉えていたが、後にフロイトはこの子どもの体験を半ば空想の産物であり、原光景の基盤には個人の内的な欲動が存在すると考えるようになった。これは「性的誘惑説」から「内的欲動説」へのパラダイム転換として記述されている。患者が告白する幼少期の大人からの性的誘惑や性交渉は、患者自身のこころの中にある願望に基づく幻想(こころの物語)であり、そうした事実があってトラウマとなっているというより、患者の内的欲動が原因で神経症が発症すると提唱するようになったのだ。
 幼少期の原風景も精神分析的原光景も、それが客観的事実であるというよりも、ある種の期待や願望の見せる幻想であるのかもしれない。しかし、それがたとえ幻想であろうと現実であろうと、大人になった自分に何らかの影響を与えている可能性がある。
 大切なのは、それをどう解釈して、現在の自分の生き方に組み込むか、だ。過去は変えられないが、その解釈は変えることができる。
 鮮明に残っているにせよ、ぼんやりと曖昧であるにせよ、誰にも原風景は存在するのだ。



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