馳浩・新文部科学大臣が、『田勢康弘の週刊ニュース新書』に出演していた。学校のいじめ問題について訊かれた話の流れで、「ゲームの影響」を指摘していた。田勢氏はその発言をスルーしていたが、メディアの効果研究について多少知っているひとなら「またそれか。いったい何十年前の議論だよ。いい加減にしてくれ」と思うだろう。
 学問が進歩してもわからないことは膨大にあるが、ことメディアの効果に関しては、もう一定の結論が出ている。メディアが直接個人に強力な影響を及ぼすという「弾丸理論」はとうに否定され、代わりに専門家に支持されているのは「限定効果論」と「受容文脈論」だ。限定効果論とは、もともと暴力的な資質を持つ人間が、暴力的メディアで引き金を引かれることがあるとする学説。受容文脈論とは、メディアが引き金を引くかどうかを含めて、メディアの効果は、メディアを享受する文脈次第とする学説。たとえば、テレビで暴力的なシーンを見ても、親などが批判的なことを言えば、「これはダメなことなんだ」と享受したものの意味が再定義されることになる。
 よって「メディアの悪影響を危惧する大人が、何か施策を打つとするなら、子どものメディア受容文脈を大人がコントロールすることを支援すること」が重要だ(宮台真司)。まちがっても、アニメやゲームの一律規制などではない。科学的に合理性がないからだ。
 これまで専門家もかなりメディアの効果に関しては発言してきていて、上記の学説をわかりやすく解説したりしているはずだが、相変わらず十年一日のごとき議論が絶えない。なぜか。
 トマス・クーンの「パラダイム」という概念を使って考えてみよう。ある時代の支配的な思考枠組み(パラダイム)が、科学や社会の発展によって、別の枠組みに取って代わられることがある。これを「パラダイム・シフト」と呼ぶ(こうした用法は誤用だと言われているが、あえて用いることにする)。さて、メディアの効果研究に関しては、もうとうの昔にパラダイム・シフトは起きているはずだ。だが、広く社会に浸透しない。いや、一定の人々は、決してそれを直視しない、と言った方が適切かもしれない。何かを悪者にして叩くていの言説は、単純だが、ローコストで訴求力が高い。複雑化した社会で鬱屈を抱えている人々には、溜飲を下げるのにもってこいだ。
 パラダイム・シフトが、社会のある限られた領域以上には影響を与えない状態を「島宇宙化」というのだろう。誰もがどこかの島宇宙に属していて、島宇宙間のつながりはない。
 さて、犯罪者が犯行動機を尋ねられて、何らかのメディアの影響を持ち出すことに関して、「ドント・ブレーム・ミー(私を責めないで)理論」が説明している。自らの主体性を捨て、責任を免除させようとして、メディアのせいにするのだ。
 コロンバイン高校銃乱射事件に焦点をあて、その背景にあるアメリカ社会の病理を描いたマイケル・ムーア監督『ボウリング・フォー・コロンバイン』は、犯人たちが犯行直前までやっていたボウリングも犯行に影響を与えたのでは、という皮肉をこめたタイトルだ。バカバカしいと笑ってしまうかもしれないが、私たちもメディア規制をめぐって、そんな発想をしていないか。

 メディアの悪影響を必要以上に言い立てる「非科学的な」物言いが、どんな副作用を社会にもたらすか、馳文科相には熟考して頂きたいものである。



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