短毛種を迎えたのは九龍(ガウロン)が初めてだ。
個体によるものか詳細は不明であるが、こんなにべったりとは思わなんだ。
歴代の猫たちから
「触って頂戴」
と前足を器用に使って知らせる事など皆無であった。
前愛猫の檳榔(ビンロウ)は食いしん坊で、ナンピョンからのお裾分けを欲しがり、ナンピョンの足に「とんとん」と叩いて知らせる事はあった。
ワタシに何かをして欲しく、前足で知らせる事などなかったのだ。
今やしない日はない。
テレビも立ったまま見る事が多い。
床につくのが早いワタシは、何かをしながらテレビを見たりするのだが、立ち止まって見ていると、茶ぶ台に乗った九龍から
「座って見たら」
もしくは
「何やってんの?」
と、とんとんとされるのだ。
おそらく
「何やってんの?」
であろうと思う。
それでもそうやって、近くにいて飼い主の素行をいつも見ている。
ソファーに腰掛けると、すぐ横にやってくる。
背中を擦ってやる。
すると「ぐりゅぐりゅ」と音を立てるのである。
ソファーに掛けてある爪とぎ。
注文しているが、まだ届かない。
ただの爪とぎであっても、ガシッガシッとしてくれるだけで飼い主は
「上手いねえ」
「流石ねえ」
などと誉めちぎる。
こんなにべったりであると、出張に出向くのに後ろ髪を引かれる思いもままある。
出掛ける一週間前程から
「◯◯に出掛けるが、必ず帰ってくる」
といつも声を掛けている。
だが、帰国すると
「知らない人ではないけれど、誰であったか?」
とされてしまい、程なくして
「ああ、いつものババアじゃないか!」
と思い出してくれる茶番劇は恒例である。
いつも側にいてくれるだけで、ワタシは「きちんとする事」が出来ている。
グウタラの己れの性格を愛猫がそれを裁ち切らせてくれていると言っても過言ではない。
動物との暮らしは制限や、やらねばならない事の連続である。
子育てや介護同様に、自分では難しいと判断した場合には、他の方に頼るのも必要であるし、そうしてきた。
「みっともない」
と口をつぐむ方もいるが、下町育ちのワタシは「恥」からの出発(?)の為に今更どうという事もない。
「恥」をかくのが嫌だからと言って、ひとりで何とかしようなどとすると限界がある。
いつも美しくスッと暮らしていたいとの気持ちもわからぬわけではない。
だが現実は、「守るもの」があった場合には髪を振り乱す事もあるのではないだろうか。
そこんとこだぞ小室(仮名)家族よ!そして雪路(仮名)よ!
身の丈に合わぬ事をすると、結果、自分にかえってくる事といい年をした者がする事なのであろうか。
いや、「天然」という魔術がある事で、「知らなかったわ」などとすっ惚け、煙に巻いて事態はそれこそ煙が空に消えてゆくよう何事もなかったようになり、それらの方々の「粘り勝ち」となるのである。
こちら側は
「諦める」という選択しかない。
煙に巻いてであってもだ「母親を守る事」のバイタリティーはあの年齢で凄い事である。
嘘の演技もやり続ける事で本物となる事さえあるのだ。
お嬢さんが「本性」を感じたり知って仕舞わぬ様に頑張り続けなければならぬのだ。
最早ワタシは応援する。
ここにきて「小室」というワードが賑わいをみせている。
両者共に世間を騒がせた事など何処ふく風である。
その強(したた)かさが万人ではない事を証明しているのかも知れない。