何のために人生があるのか?と模索していた時期に、一旦たどり着いた答えは
人生は「経験する」ためにある
ということ。
そして、夫を亡くした私の世界観で言えば、すべての経験は「魂を成長させるため」。
その経験に「良い」とか「悪い」と決めているのは自分自身。
それに気が付けば、だいぶ楽になるということに気が付きました。
怒られたとしても、
「私のために言ってくれているんだな」と思うか、
「この人は朝にとても嫌なことがあったのかな」と思うか、
「私を憎くて傷つけたくて言っている」と思うか、
それを決めているのは自分の心です。
そして、たとえ傷つけられたと感じた場合でも、相手には相手の勝手な思い込みがあり、
良いとか悪いとかを決めて発言をしているんだという想像は、自分側ですることができるし、
そうすると、やみくもに感情を振り回されることがいかに時間の浪費か、ということに気が付きます。
相手を自分のモノサシで見ると、「あいつは非常識だ」と批判したくなる。
逆に、そういう人に「非常識だ」と言われたとき、
「いったい何を常識だと思い、何を非常識だと思っているのか?」
と確認すると、非常にあいまいで答えられないことがとても多いです。
感情的になり火に油を注ぐ可能性はあるけれど(苦笑)、
その基準がはっきりしていないので、理解しあうことは難しいんだなと理解できれば、
手放したり、いい意味であきらめがつくものです。
それにはまず、自分の基準だったり、自分の信念を理解することから始めたらいいのです。
自分の信念というと少し難しいけど、基本的に「自分はどういう気持ちか?」ということを気にかけることから始まります。
イライラしているなら、きっと自分の信念にそぐわない出来事に遭遇しているから
。
逆にうれしいなら、自分の信念と一致したことが起きている。
それを理解してあげれば、自分の信念(大切にしていること)が分かって、
それを達成するために「経験」して幸せを目指しているだけ、と分かります。
どうせ幸せになるための通過点であるということを理解すれば、
受け止め方が少しずつ変わり、感情に振り回され過ぎなくなっていきます。
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