前回の投稿にも
つながる話。


私がピアノに対して長らくやってきた思考。


”ピアノを辞めたら価値がなくなる“


こちらも起点がそもそも
ズレている。


・楽しいからやる。
・こんな曲弾きたいからやる。
・こーんなドレス👗着てみたいからやる。



はっきり言って、
私はこのどれでもなかったのだ。



では何でやっているのか?
の問いに、当時は


「なんか、辞めるのは違う気がする」


としか出てこなかった。



でも、今ならその裏に
うっすら貼り付いてた思考が
価値とくっつけていたんだと分かる。



そんなだから、
曲を練習する過程、
発表会の場…を楽しめるわけがない。



なんてもったいないことを
してきたのだろう。



譜読みが遅い自分や
伴奏付けが上手く出来ない自分を
他人と比べては落ち込み、
そして諦めていった。


今なら分かる。


喜び(大変なことも含めて)でやるのと
価値を付けようとしてやるのとでは、


充実度は天地の差。
心の満ち度は、銀河とウジ虫。


そして、才能の開き具合も
当然ながら比例していくのだ。



対して、書道。


ピアノと同じくらい長く
やってきた習い事。


こちらは、ピアノと全く違っていた。


半紙の上に筆を置く瞬間
筆を走らせる感触が好きだったのだ。
ほのかに香る墨の香りも
好きだった。



そして、書道をしている自分も
好きだったのだ。(←その当時は分かっていない)


ここで両者を見ると
2つの違いがある。


・起点がどこか
・自分に向ける愛の眼差しの量


ピアノに対しては、
何か必死にぶら下がっている感じと、
自分に対しての注意の量(愛の眼差し)が
圧倒的に少ない。


書道に対しては素直に楽しんでいる。
それをやっている自分に
対してもいい感じ♪と思っている。
他人と比べていない。




でも今私は、どんな理由であれ、
ピアノを続けてきた過去の自分に
感謝している。



書道のように
何の抵抗もなく、
好きで続けてきただけだったら
このカラクリに気付くこともなかっただろう。



ましてや、同じように悩む人の気持ちも
分からなかっただろう。



だから、「このまま辞めるのはなんか違う」
という当時の感覚は、未来の自分からの
応援メッセージだったという側面も
併せ持っていたのだ。




今さらながら、
辞めないでいてくれて、ありがとうだ。



音大を卒業後、ピアノ講師や
様々な職業を経験したあと
教員になり、そして今がある。
途中、ピアノを辞めたこともあった。


一周まわって、
またピアノ教室をやろうと思っている。


どんな形になるかは
まだ分からないけど
音楽を通して
色々体験出来たらいいよね。


というわけで
まずは私、モーツァルトの連弾を
楽しみますウインク