説教のお年頃 | 台湾食べっぱなし(小吃と台湾華語)

台湾食べっぱなし(小吃と台湾華語)

台湾に住むことになっていろいろと、気持ちよかったりわるかったり。楽になったり辛かったり。
食べ物のことが中心です。

最近、社会人生活をしていると10も15も年の離れた彼氏彼女と時を同じくする。


彼らを見ていると、いろいろなことがこれからわかってくるのだなぁ、とわかってしまったような気になる。


とにかく、毎日、自分とは何か違うものを見ている、違う刻を生きているというクオリアがある。


これは、兆しだ。




高齢者介護をしているときも、そこを離れても、年長者はたくさん自分の話をしたがる。

若い人でも、自意識過剰で自分の話を多くしたがる人はいるものだけれど、


年齢を経ると、それは加齢の特性として現れる。


ほとんどの場合、自分が話したくて仕方がないからなのだけれど、


それを認めたくはなくて、おためごかしな説教に変換する。


私も、年をとるときっと自然とこうなっていくに違いない。




なるまい、と思うことはできる。本当に賢い人なら、ぎりぎりまで我慢するだろうか。


でも、暮れていく人生の時のどうしようもない寂寞は、その決意などひどくかんたんに上書きするのだ。


むしろ、強い人、知る人ほど、自分を語りたくて仕方がなくなる。レゾン・デートルだからだろうか。


私もいずれ、必ずああなる。




年をとると、ほとんど誰もが、今まで生きてきた自分の生き様を大切にいたわろうとする。


具体的に何かを得ている人はどうしたってそれに寄りかかるだろう。


でも、何もなくても、どうしようもなくても、ただ時を経たというだけが当人にとっては大切な結晶だ。


結晶としての今がある。


それをとても大切に思い、弁護するのは、そんなにうっとうしがり、責められるべきことじゃない。






他人にどうこうせよというのは、年長者に限らず、大きなお世話だ。


しかし、どうこうせよといわざるを得ない生き様にある悲哀をよく見ておきたい。


馬鹿馬鹿しいと思うもいい、こうはなるまいと思うもいい。


そして結局、自分もそうなったとき、その佇まいこそが、人生そのものである。