つづき
大山祇神社から300mほどの所にある鳥羽ガイドセンターへ『九鬼嘉隆水軍展』を見に行ってきました
鳥羽城の模型があったり
鳥羽藩 家老 門野氏の鎧と兜
九鬼氏の鎧を再現したものだと思っていたのでちょい残念
門野家は鳥羽藩主稲垣氏に仕えていた方で、その子供らが大実業家となりこの部屋の隣が記念館になっていました。
これは九鬼氏の陣笠
九鬼氏の具足
九鬼嘉隆
・肖像画(原本)は1607年に描かれた。伊勢朝熊山金剛証寺に現存している。
・常安寺のものは1672年に写し取らせ奉納したもの。
…各々武将ら、微妙に違う肖像画が存在しているのはこういう事だったのかぁ!
九鬼嘉隆の系譜
・先祖については不明のようです。
嶋衆と九鬼氏
・初代隆良時代に英虞郡波切(なきり)村に進出。
・(4代)泰隆時代に岩倉に田城城を築く。
・嘉隆が生まれた時代は『海賊衆』呼ばれる集団が各地におり、九鬼氏もその中の一つだった。
・嘉隆は滝川一益を介し、織田信長に仕えるようになる(経緯は不明)
・兄が亡くなり、その嫡男が原因不明で亡くなった後、嘉隆が家を継ぎ実権を握る。
(兄の嫡男の死亡に関しては暗殺説もあるようです)
嘉隆と織田信長
『滝川一益を介して織田信長に仕える(経緯不明)
長島の一向宗が信長に対し一揆を起こす。二度にわたる戦いで信長は弟や重臣を失った。
三度目の一揆の際、嘉隆は「安宅船(あたけぶね)」という軍船で参陣し、要害を破り突破口を開いたことにより織田水軍の将として頭角を現していく。』
…びっくりしたのが この案内板、上の文(信長の写真上)と下の文(地図の横)、8割9割同じことが書いてあるんです。雑に資料貼り付けた感がすごい
第2次木津川口の戦い
1576年、毛利水軍に大敗した信長は嘉隆に大安宅船7艘の建造を命じる。→2年後完成。
宣教師オルガンチノは日本でこんな船が造れることに驚いたとフロイス宛の手紙に記した。
この船は「鉄甲船」として知られているが、近年は鉄板貼りではなく西洋式の船だったという説も出ている。
1578年、嘉隆軍が敵船を引き付け砲撃で打ち崩した
勝利したことによって信長から 志摩国7島、摂津国野田、福島7千石の加増を得た。
豊臣秀吉と嘉隆
本能寺の変で後ろ盾を失った嘉隆は、1584年 小牧・長久手の戦いで秀吉方につく。
以後、豊臣水軍として重用される。
1587年の島津攻め、1590年の小田原城攻めでは豊臣水軍の大将格であったとされる。
朝鮮出兵の際、秀吉は大安宅船の建造を嘉隆に命じる。
秀吉の『海賊禁止令』を境に他の水軍は勢力を削がれていったが、九鬼氏は生き残った。それは優れた造船技術があったからだと考えられる。
文禄の役
1592年、嘉隆は加藤嘉明や脇坂安治らとともに朝鮮へ出兵。→苦戦
二度目の戦いとなる慶長の役には嘉隆の名はなく出兵しなかったとみられる。
↑案内板の絵は釜山海を進行する九鬼水軍の様子。原本は昭和の戦争で失われたため、戦後に模写されたもの。
※絵には日の丸が描かれているが、原本は九鬼家の定紋が描かれていた。
↓
最古の鳥羽城の絵図
その他の地図との比較
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでは、父 嘉隆は西軍につき、息子 守隆は東軍についた。
…家を存続させるためにあえて東西に分かれた←というふうにしか勉強してなかったので、こんな状態(親子)で戦闘モードになれるんかなぁ?と思っていたんですが、ガッツリ鳥羽城の取り合いしてて驚きました
嘉隆の最後
西軍敗北後、嘉隆は答志島へ逃れた。
息子の守隆は父の助命を家康に請い了承されたが、報が届く前に嘉隆は答志島で切腹した。
写真は嘉隆が切腹の際に用いたとされる小脇差。
1396年2月 山城国(現京都)の信國(のぶくに)作の短刀。
…今の大河ドラマの家康が後にこんな成敗出来るのかと見ていて心配…というかいつまでたっても武将としての貫禄が出ず緊張感無いまま見ています📺
答志島の胴塚・首塚
胴と首が分かれているのは、ウィキペディアによると首は首実検のために家康のいる伏見城に送られたためのようです。
胴は守隆により葬られ、後に首が答志島に戻り首塚が建てられたそうです。
九鬼氏が居城していた田城城跡地から見つかった古銭
袖印
笠印
鉄甲船の模型
九鬼家の御家騒動
嘉隆の息子守隆の 三男・隆季(たかすえ)と 長男の養子・久隆(ひさたか)による家督争いは幕府まで巻き込んだ。
志摩国の所領は分割相続されたが、隆季は丹波国へ、久隆は摂州国へ国替えとなった。
よって水軍としての活躍の場を失う。
九鬼水軍陣太鼓?
明治時代にそれっぽいのを作ったって事なんですかね?
国友の火縄銃?
九鬼氏が使用してたものなのか?何なのか…
九鬼家ゆかりの宝物
大阪城には九鬼家の宝物が収蔵されているらしい。
これは…
ということでこの日は、
鳥羽城跡→ 大山祇神社→ 九鬼嘉隆水軍展 を満喫しました。
ついこの間まで、
九鬼=胡麻 のイメージしかなかったんですが、勉強したら意外と面白かったです。
私は城に関してさほどの興味は無く、ちょくちょく城巡りしているのは歴史の流れを知るためなんですが、、鳥羽城に関しては惹かれるものがありました。「水軍」という特殊な武将だからなのもあるし、子孫が三重県で事業を起こしたというのも大きいかもしれない
一日かけてまわった雰囲気ですが、鳥羽城跡は9時過ぎに着いていろいろ見て回り、水軍展を見終えたのは11時頃でした。気軽にまわれますので歴史好きの方はぜひぜひ