つづき…
 
 
能褒野神社参拝後、同じ敷地にある日本武尊御墓へ。
 
 

 

 
 
 
古墳群の外周と思われる柵沿いを歩いていきます足あと
 
 
 
柵の中を撮ってみたけどただただ木が茂っているだけ🌳
 
 
 
道なりに歩いていきます足あと
 
 
 
左側に『能褒野墓 飛地ほ号』あり。
 
これは古墳群のうちの1つなんかな。
飛地(培塚?)には服飾品のみ埋められているものもあるようです。
 
 
 
ちょっと歩くとこんな… 
 
憩いの場とは程遠い…
暗くて湿った雰囲気の広場があります。
(朝9時前)
 
 
 
道なりを歩いていくと、気づけば柵とは離れ竹林が。
 
風が強く吹くと「コンコンコンコン」という竹同士がぶつかる良い音色がかすかに聞こえてきました🦊
 
 
 
ちょっと歩くと『お墓 →』のちっちゃい看板あり。
 
 
 
右側に階段が出てきました。
 
 
直角に曲がり再び階段足あと
 
 
 
っぽい看板も出てきました。
景行天皇皇子 日本武尊 能褒野墓(宮内庁)
 
 
 
この先は立ち入り禁止となっています⛔
行こうと思えば行ける緩めの柵
 
 
ということでカメラをズームズームしてみましたが…
 
 
 
 
終了~!
 
 
 
 
階段を下りて、さらに奥へ進んでみました足あと
 
丸っこい石垣沿いをズンズン進んでいくと
 
 
『能褒野墓 飛地い号』あり。
 
ほ号は古墳らしい土の盛り上がりがありましたが、い号に関しては何にもわからへん。
 
 
 
 
ざっくりこんな事が書かれています…
 
 
能褒野王塚古墳
(景行天皇皇子日本武尊能褒野墓)
 
標高45mの段丘に所在する前方後円墳
全長90m、後円部径54m 同高9m、前方部幅40m 同高6.5m
三重県北勢地域最大規模の古墳
 
この古墳から採取された鰭(ヒレ)付朝顔型円筒埴輪や器材埴輪は4世紀末頃に作られた。
これらの埴輪は奈良県北部地域京都西南地域との関係がうかがえる。
 
日本武尊が東征の帰路に伊勢国能褒野で亡くなったとの記述により、明治12年に内務省によって比定された。
 
周囲にある十数基の円墳(培塚)は後期古墳と考えられる。
 
 
 
駐車場に戻ってきました足あと
 
 
 
後日、日本武尊の妻 弟橘媛の実家である忍山神社にも行ってきました~⛩
また整理してブログ更新します。。