かっぱのテキト~お気楽裁判傍聴記 -11ページ目
<< 前のページへ最新 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11

コラム① 僕が傍聴にはまったワケ

  これから裁判傍聴の記録を綴っていくにあたり、まずなぜ裁判傍聴にはまったのか、記しておこう。

  端的に表現するなら、「もともと傍聴に興味あって、行ってみたら楽しかったから」である。すでに小学生の頃から2時間サスペンスや推理小説が好きで、あの頃から裁判所への興味は芽生えていた。「異議あり!」を聞いてみたい。検察官と弁護人の喧喧顎顎なやりとりをみてみたい。幼心に憧れていた(この思いは後々に裏切られるわけだが)。しかし、裁判所とは特別な場所であり、ある意味、選ばれた者しか足を踏み入れることができないと思いこんでいた。しかも、かなり最近まで。だが、ある日、傍聴はタダであることを知った。これでハードルはだだ下がりである。あとはタイミングと勢いである。


  遂にXデーは訪れた。ある晴れた日の朝、「行ってみようか」という気になった。それは不思議なほどスムーズに。目指すは奈良地方裁判所である。理由は簡単。最寄りだからである。自他ともに方向音痴に定評のある自分だが、奈良地裁は非常にアクセスしやすいところにある上に、目立つところにあるので、所在地は以前から知っていたのである。奈良観光に来れば、一度は前を通るのではなかろうか。おかげで迷うことなく目的地にたどり着くことができた。


  奈良地裁は非常に綺麗で、裁判員裁判の実施に合わせて、改装したようだった。コンセプトを「風と緑」と謳っているだけあって、春先は緑萌える美しい外観となっている。待合の場でもある一階ロビーはゆとりのある空間設計となっており、そこに爽やかな太陽光が降り注ぐ。こんなにも裁判所は美しく居心地の良い場所だったのかと、開廷前からカルチャーショックである。


  人生初めて傍聴した事件は、幸運にも傍聴券が配布されるほど注目度の高いものであった。この事件についてはまた後に記録として残すことにする。


  初傍聴の感想は「ただただ楽しい」だった。幼い頃に憧れていた「異議あり!」や喧喧顎顎のやりとりがテレビドラマのように横行しているわけでないし、想像以上に淡々と、地味に進行していくのだけど、そこにはドラマがあった。ニュースや新聞では被告人、場合によっては被害者も記号のように取り扱われる。しかし、彼らには彼らなりにそれまでの人生で背負ってきたものがある。もっと言うならば、呼吸をしている。そんな息づかいを感じられるのが裁判傍聴である。たとえば単なる窃盗事件も、ここに被告人の背負ってきたものや息づかいを感じることで、もしくは被告人も自分と同じ血の通った人間だという視点が加わることで、事件の見え方が劇的に変わってくる。その瞬間が何ともいえず快感なのである。


  誤解していただきたくないのは、決して被告人を美化するつもりではないことである。人それぞれにドラマはあり、それは被告人も同じということを言いたいだけである。裁判所で繰り広げられる人間ドラマは、テレビの脚色されたドキュメンタリーとは比較にならないぐらいに臨場感にあふれ、ダイレクトに心に迫る。それゆえに、被告人が許せない気持ちがより強く湧き出ることもあるのだ。むしろ、そのケースの方が多いかもしれない。


  このように法廷は、人間ドラマに立ち会える貴重な場なのである。喜怒哀楽が渦巻く空間。ましてやタダとくれば、利用しない手がない。


  僕は傍聴するたびに、眼前で紡がれていく人間ドラマに身を委ねつつ、裁く人、裁かれる人、見る人・・・同じ人間なのに、どこで道を違えてしまったのか?罪とは何か?罰とは何か?裁きとは何か?許しとは何か?そんなことを自問自答している。僕なんかが答えを見つけ出せるわけがないが、考えなければ、感じなければ、何も始まらない。僕にとって裁判は人間のことを教えてくれる人間図鑑なのである。そして、今日も僕は人間のことを知りたくて、図鑑をめくりに法廷へと足を運ぶ。

<< 前のページへ最新 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11