明治43年教師を目指して東京高等師範学校に入学した金栗四三は、
ここの校長の加納治五郎(講道館柔道の創始者)と出会う
一年の二学期に長距離マラソンの大会に(春は三里、秋は六里)に出場して
加納治五郎に認められる。
オリンピックに出場することになり、
明治45年日本初のマラソン競技のオリンピック選手として参加する。
マラソンの由来が
古代ギリシャのマラトシの戦いでアテナイ軍がペルシャ軍を破ったことを伝える伝令「我勝り」から
名付けられた。と書いてありそんな前からなんだと
びっくりしました。
最初のストックホルムオリンピックは、日本人三名
暑さに負けて三人共挫折する
その時の苦しさは、
読みながら同じように汗ばんでくるような感じでした。
四年後のオリンピックは、ロンドンの予定が第一次世界大戦の勃発で中止。
その四年後のアントワープオリンピック、ベルギーの古都
日本人参加、陸上、競泳、テニス、合わせて25名参加
金栗は16位で完走する。
その後、女子のスポーツ教育に携わりながら
第一回箱根駅伝
オリンピックの年、大正9年4月14日午後1時、報知新聞社を出発
東京と箱根を往復、五区間を区切り
折り返しを一日目、往路を二日目とする。
という
アメリカ大陸横断を真似て
報知新聞社の協力を得て実現する。
今では当たり前の恒例となった箱根駅伝のルーツが金栗四三が手がけていたとは、
初めて知りました。
三回目のオリンピック、
人材を育てるのに徹底していたにもかかわらず、予選で勝ってしまい、やむなく自身も参加することになった
パリオリンピック
マラソンで参加した金栗を含めた三名は、自ら挫折して完走が出来なかった。
走っている時の風景、地形、応援の人達、そして天候不順、
給水の取り方
あらゆるものが、その時々で、体調を左右されて、気力が奪われていく様子が、
リアルに鮮明に伝わり
孤独との戦いだなぁと、頭がさがります。
その後、5年間は生まれ育った熊本に帰り、走る楽しさをたくさんの人達に伝えて、色んな行事を実現させる。
オリンピック委員会として再び東京に戻されるが戦争の影響で中止になり
東京オリンピックは、
昭和三十九年になった。
金栗四三は、東京オリンピックを見ることなく
昭和二十九年、92歳で亡くなる。
自ら楽しんだマラソン、そしてたくさんの人達の力になり、現役後はスポーツを育生することに全力を捧げた人生
「マラソンの父」
何とふさわしいピッタリとあった名前だと、改めて尊敬してしまいました。