17歳、私は精神的に追い込まれていました。
今までの言葉に出来ないことが、心に傷をつけていました。

リストカット、自殺、大量の薬摂取

そんな私でも学校でも普通でした。誰1人私の変化に気付くことなく、1日1日が過ぎていました。

高校2年の文化祭、担任の先生に私が泣いているところを見られました。

「どうした?」という言葉に私は「なんでもないです」と腕を振り払い、逃げました。

先生はそれ以上の詮索、呼び出しなど行わず、私にとってはよかった。

それから3ヵ月後、親の喧嘩が始まりました。

喧嘩の翌日、私は普通に通学していた。普通に授業を受けていた。


突然、担任の先生から「なんかあったやろ?」といわれた。

監視されていたのかと驚き、とっさに「何もない」と返答した。

担任の授業でプリントにコメントを書く欄があった。

先生は「なんかあったら、いつでも言っておいで」とだけ書いてあった。


心の葛藤が起きた。

言っていいものか、どうしたらいいものか。。。

そして決断した。いってみようと。

授業のプリントに「水曜の放課後空いてますか?」とだけ書いた。

「空けとくわ」と返答があった。

水曜日

先生は既に、人前では聞かせないよう配慮し、他の準備室を用意していてくれた。

何から話せば、、、、

まず、家族のこと。そして暴力の事。

話した後、私は大泣きしていた。先生も目に涙を浮かべていた。

先生が「少しでも先生が君の重たい荷物を持ったる」と言った。

話すことで、すっきりというか、少し開放された気分になった。


父は数え切れないほど母に暴力を振るっていた。

想像を絶するほどの暴力の度合い。包丁で足を切ったり、ビール瓶で何度も母の頭を殴り、顔もボコボコ。

裸にして外に追い出したり、寒い冬に水を掛けて追い出したり、油を全身に掛けて火をつけかけたり、、、

ほんと殺人未遂並み。母は「あんたが、高校卒業したらお母さん出て行くから」と何度も私に言っていた。

悔し涙を流す母、血だらけで全く動けなくなった母、血のにおいが2階まで漂ってくる。

私は、出て行かされる母に自分の通帳を渡すので精一杯だった。2万円も入っていない預金通帳。

母が出て行っている間、私は学校終わったら、母がどこに居るのか探し、母と会う。

母と離れることがつらかった。帰宅したら、掃除し、夕食を準備した。そして洗濯。

それを毎日繰り返す。

母が家に戻ってくるときは、夜が怖い。暴力が居る起きるのか、どきどきし、お腹が痛くなり、下痢をする。

2階の部屋に戻ってもドアは閉めず、あけておく、耳を澄ませて喧嘩する様子の声のトーンかどうか調べる。

それが私が生まれてから中学1年までの生活だった。

誰にも一切言わなかった。言うという選択肢を知らなかった。こういうことをいうのは恥ずかしいことだとも思っていた。

そして、「言っても誰も助けれるわけじゃない」それが私の心にあった。

誰も助けてくれない。

中学1年になり、また喧嘩が起きた。母は会社の2階で暮らすようになった。

私も母についてゆき、会社で寝泊りするようになった。

ある日の夜、会社の玄関が「ガタガタ」しだした。

そして2回のドアが開き、父だった。予想通りだった。

父の手には長いロープ。

とっさに察した。「母が殺される」と…

いつも喧嘩が起きたら、両親は「あっち行ってろ、向こう行け」と私に怒鳴る。私は怒鳴り声で怖くなり、離れる。

けど、今回は違った。2人は勿論私に向かって怒鳴ったが、私は母の前に出た。退くことはしなかった。

手を伸ばし、母を殴らせないよう、バリアになった。そのとき、覚悟はしていた。殴られ、死ぬことを。

けど、父は私に殴ることはなかった。

母も父が私の横から母を何度も殴ろうとしたが、あまりあたらずに済んだ。

初めて喧嘩を止めた。

その日を境に私が喧嘩を止めてきた。

だけど、17歳のときに自分の心に変化が出てきた。

 3日前から、10分程度だけど、寝る前ZZZ...にストレッチダンベル?をするようにしました。


昨晩、いつもなら体が重いずっしり↓のに、ストレッチ後の階段の上り下り階段は軽い軽いきゃはっ


でも、頭痛の改善はみられない。まだまだ急には改善されないよねばか