英国に居るときはよくブログをUPしていたんだけど・・・

しばらく止めていました。理由は、日本に戻ったから。ただそれだけにひひ


このブログは自己満足の気ままなブログで、誰1人このブログの存在を教えてませんでした。

前のブログは一応そのまま置いてます音譜


今は大切な友人1人は知ってますが、今後自分からあえて教えるつもりはないで~すにひひ

というのも、本音や、気楽にブログをUPしたいのでにこ


自分の性格が悪いところ、いいところ関係なく、感じたこと、思ったこと書きたいじゃん変顔


そんなわけで、、、よろぴこ~パー

私は31歳
私が25才くらいになるまで(はっきりは覚えていない)、私の父は既婚者だった。相手は母ではない。
母は父と出合ったころ、離婚していた。
今でもバツ1。

私の両親は、不倫だった。
両親は田舎での居場所が無くなり、母は父に妻が居ることを知り、別れて大阪に出てくる予定だった。
だけど、父がそれを知り、母を探し出し、殴り蹴りで母と強引に一緒に大阪へ出てきた。
父は妻のところへ戻りにくくなったからと母は言う。

だから、私の戸籍には「女」としか書いていない。
つまり、非嫡出子。

 1文無しで出てきた両親は、必死に働いた。
しばらくして、母は妊娠した。だけど、流産した。
母は泣いた。

母は2度出産している。
結婚しているときに2人(長女、長男)を産んでいる。

父は妻との間に、3人(長女、次女、長男)がいる。

母は2人の子供を連れて行くつもりだった。
だけど、祖母が絶対に許さなかった。

母に支えが欲しかったのではないだろうか。
そして私の兄が生まれた。
兄が生まれ、母は「この子を支えるためにも、もう一人産む決意をし、そして私が生まれた。

 妊娠中も、産後も母は必死で働いた。産後もお金が無く、その日のうちに自宅へ帰った。母の体は毛細血管がたくさん切れていた。
100円をケチり、私を負ぶって2つ先駅まで歩き、夜遅くまで働き、とにかく私達を育てていくのに必死だった。
母は私の出産資金をコツコツためていたのにも係わらず、父は友人にそのお金を貸してしまった。

父はダンプや、長距離の運転手などをしていたが、仕事を変えては失業保険もらい、決していい生活でもなかっただろう。

私は病弱だったらしく、肺炎になった際、全身が紫色になり、病院の医師からは死を宣告された。
肺炎でも入院するお金が無く、毎日母は兄を自転車に乗せ、坂ばかりの道を1日2往復して私に点滴させにいってくれていた。

 そして、昭和62年に両親は会社を立ち上げた。


私はこれでも自分の家が貧乏だとか、惨めだとか、貧しいと感じたことは一切無い。

母は自分が食べなくたって、子供にはいいものを食べさくれていたし、何よりたくさんの愛情を私達に注いでくれた。


母は振り返って言う。

この頃が幸せだったと。

朝から給与計算、会計報告、、、明細作成、、、請求書などで今やっと落ち着いたフー

なんでこんなに(-皿-)するのだろうか。。。へこむ


私は仕事において迅速かつ完璧にしたいGood


だからのろいとろとろされて、時間を無駄にすることにイラっとする。これが先ず第一壱

2に、やっている振りして、やっていない人に対しイラっsao☆

3に、やる気満々であることは良いけど、途中で投げ出すような仕事の仕方。

最後に、守ることは守る、してはいけない事はしない、つまりコンプライアンスに対するいい加減な人えー


この原因は当社には全部当てはまっている人、事があるはぁ



少しでも良くしようと動き、発言しても、聞き入れてくれないのが現状。

いい加減な扱いをすれば、膿はたまり、、、手の施しようが無くなるくま


試練はまだまだだわ・・・