タイ史再考②先住民モン・クメール王朝の興亡 | 迷えるオッサンの老惨禄

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チェンマイ18年の日誌を中心にやってきましたが、2021年9月帰国、タイトルを変更したいました。

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■タイ人の故郷は現タイ国の北方、メコン川上流に広がる中国の雲南高原で、8世紀には南詔国、10世紀以降は大理国などの古タイ系民族国家が隆盛していた。なお、「タイ人のルーツ・雲南の古タイ系民族王国」については“タイ前史として再考しようかと思ったが,以前「再訂版」を出していたのでご覧になりたい方はココをクリックしてどうぞ。
 
しかし、漢族(唐)やモンゴル族(元)の侵入と支配を逃れ、10世紀以降インドシナ半島(ミャンマー・タイ・ラオス)へと南下を開始、13世紀にはタイでスコタイ朝(シャム王朝)、ランナー朝(チェンマイ王国)などのタイ人王国が建国された。
 
以上は前述の「タイ人のルーツ雲南高原」に記載したが、南下ルートは上図タイ人の故郷大理◆から●印(タイ族の旧都)をたどっていくと分かりやすいと思う。すなわち最初はメコン川次いでチャオプラヤー川を下って行くルートである。

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ところでタイ人が現在のタイ国の地に移住する以前にも当然歴史はある訳で、今回はタイの先住民モン・クメール族の古代王国との関係について見てみよう。

なお、モン族は他にミャオ(苗)またはメオとも呼ばれる北タイの山岳少数民族のモン族がいるが、これはリス族やアカ族など他の山岳民同様に中国(雲南・貴州)山地からの移住民で、タイの先住民モン族とは全く異なる。
 

イメージ 7■インドシナ半島の先住民モン・クメール族は、メコン川下流域のクメール(現カンボジア)人や東海岸のベトナム人およびビルマ・タイ国境地帯のモン族がその代表で、

ヒンドゥー教・上座部仏教・バーリ語など古代インド文化(ベトナムは漢字・大乗仏教の中国文化)を受容して、東南アジアでは最初の先進文化を開花させてきた民族として知られる。

最初に発展したのは6世紀に真臘(チャンラ)を建国したクメール人で、9世紀にはアンコールを拠点にインドシナ半島全域に跨る強大なクメール帝国(上図)へと発展、壮大なアンコールワットに代表される本国インドを凌ぐヒンドゥー文化が開花した。

イメージ 2ちなみにクメール帝国の中心は現カンボジアと現タイのイサーンで、イサーンにはピマイ遺跡(右写真)やブレアビヒア遺跡(世界遺産)に代表される多くのアンコール遺跡が残されている。

なお、クメール帝国は13世紀のジャヤバルマン7世時代が頂点で、ヒンドゥー教から上座部仏教へと改宗、アンコールトムなど多くの仏教寺院が建立されたが、死後急速に弱退化してスコタイ朝やランナー朝などタイ人王朝独立の契機となった。
 
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他方、もう一つの先住民モン族はクメール帝国の西の辺境であるチャオプラヤー川デルタに定着、紀元前4世紀には前号で触れた黄金伝説のスワンナプーム王国があったといわれる。

イメージ 3しかし、前号でスワンナプームは伝承の架空の王国としたように、チャオプラヤー川の 低湿デルタには遺跡や遺構もほとんどなく、紀元前の古代国家を裏付ける実証性は乏しい。

こうした中で4世紀ナコンパトムで興ったドバラバティ王国は信憑性が高く、その中心ワットプラパトム寺院(写真)12048mという世界最高の仏塔(ギネス登録)を有するタイ最重要寺院として現存している。

 ナコンパトムに興ったモン族の古王国ドバラバティは、6世紀以降チャオプラヤー川東岸ロッブリ―へ本拠を移し、7世紀にはさらに遡行してピン川に沿うランプ―ンへと北上する。
 
これはモン族の故郷であるミャンマーのペグー(現バゴー)と結ぶ中継ルートの建設という説もあるが、11世紀以降はやがて南下してきたタイ族と衝突して激しい攻防が展開されていく

イメージ 4■さてドバラバティ王国の本拠地ロッブリ―は、今日でも右写真のような古寺や古王宮などの壮大な遺跡の残る歴史観光都市として知られている。
 
これはワット・プラサンヨット遺跡であるが、よく見るとラテライト煉瓦で出来た3つの石塔はかのアンコールワットやピマイ遺跡にそっくりな建造物ではないか。
 
それもそのはずロッブリ―のモン族文化は11世紀のアンコール朝クメール族の侵入で廃墟と化し、これは13世紀にクメール帝国によって建設されたヒンドゥー寺院で、残念ながら先住民モン族の遺跡は皆無である。
 
 
イメージ 5■一方、ロッブリ―から700km上流のピン川に沿うラムプーン(チェンマイ南方20km)は、ロッブリ―から送られた伝説の女王チャーマテーウィ(左写真)が、661年に建設したモン族最後の王朝ハリプンチャイの所在地として知られる。
 
ラムプーンは当初は北方辺境の要塞にすぎなかったが、10世紀以降本拠のロッブリ―がアンコール朝クメール人の脅威にさらされて以降モン族勢力の中心がラムプーンに移動した。
 
その後はピン=チャオプラヤー川水運を利用した北方の中国やビルマのモン族王都ペグーとの中継貿易で繁栄、多くの寺院が建設されて上座部仏教の中心となり、モン文化の黄金時代を迎えた。

イメージ 6ちなみにランプ―ンはチェンマイから20kmと近いので自転車やソンテウ・バイクでも何度か出かけたが、

かつての王宮ハリプンチャイ寺院はご覧のようにタイ式金ぴか寺に変貌、チャーマテーウィの銅像も1970年代に作られた現代風美人像で、この地にもまたモン族の栄光を残すモノはほとんど残って無い。
 
 
ランプーンは11世紀にコレラが流行、ハリプンチャイ朝は一時ビルマの故郷ペグーへの遷都を余儀なくされたが、その間隙をぬってタイ族が南下、13世紀にはラムプーン北方20kmのチェンマイまで迫ってモン族を脅かした。

そして1281年、ランプーンは再びコレラに見舞われる中チェンマイよりメンライ王率いるランナータイ軍の侵入を受け、620年間続いた栄光のハリプンチャイ王国は滅亡、以来モン族の中心はビルマ(ミャンマー)のペグーに移動するにいたった。

以上・・





























ちゃんちゃん