何でも信じすぎでない? | 「真夜中の談話室」の缶詰

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現在、前の仕事の延長で20代の仕事を手伝っている。

元々は作業の仕方を教えていたのだが・・・覚えてくれないえーん

 

だから手伝いながら、私は噓をつく。口笛

私の言う通りにしか出来ないのであれば、この先は仕事にはならないだろう。

 

私はヒントだけ教えられて作業は自分で考えて行うように教わってきた。

実際に人に教える様になり、いきなり壁にぶち当たった。

教えても覚えてくれない、その場ではわかってくれるが・・・時間が経てば覚えていない。

これは「覚える気が無い」としか思えない。

 

今は「デモ」と言う言葉も良く聞くようになった。

では「デモ」とは?

 

当たり前だが「デモンストレーション」の略、日本は都合が良い様に解釈されていないか?

 

本来は「デモ」に良いも悪いもない。

「デモンストレーション」=「デモ」であるはずのなのに、なぜか?日本では悪い印象がある。

「○○反対!」に見られる、「異議を唱える」事が悪いと感じるからだろうか?

そもそも、賛成も反対もあるのが当然だが・・・

 

公平であるはずのオールドメディアで話題になったり、ならなかったり。

もはや「公平」ではないと言う事、メディアが都合が良い方に解釈したと言う事だろう。

だからテレビや新聞とインターネットで分断が起きている。

分断自体は事態は悪い事ではない、賛成も反対もあるのが当然なのだから。

 

オールドメディアの衰退は、情報の一方通行でしかない。

インターネットの発展は、情報に対しての議論が出来る事。

 

「人間は考える葦である」

17世紀フランスの哲学者パスカルの言葉で、「人間は自然の中で最も弱い葦のようにか弱いが、思考する能力を持つことで偉大な存在となる」という意味です。物理的な弱さと、思考という知的な偉大さという、人間の持つ両方の側面を表現した言葉です。

 

だから、私は手伝いながら嘘をつく・・・「考える事を諦めたらそこで終わり。」

早く、私の噓に気が付いて、私を怒ってほしいものだてへぺろ

 

嗚呼、若者に幸あれ!

 

p.s.

若い頃は「人間は考える足である」と思っていた事がある。

「歩みを止めて考えるのをやめたらそこで終わり」と思っていた。笑い泣き

今では良い思い出。