「虚構の社会」などと、たいそう偉そうなタイトルをつけたが、たいした中身があるわけではない。要は我々の社会が、いかに根拠のない常識や価値観に支配されているかということである。このようなことを書いたところでどうなるわけでもないが、心に溜まっていたものを吐き出すことで少しは癒しになるかもしれない。共感してくださる方があれば幸いである。

 

我々は子供の頃から学校や家庭でさまざまな常識や価値観を学び、また社会生活を送る中でそれを自然と身につけてきた。しかし、やがて大人になり様々な経験をし、社会の表も裏もわかってくるようになると、我々がいかに虚構に満ちた常識や価値観に支配されてきたかに気付く。そのひとつが学歴社会である。

 

私が生まれ育ったのは昭和20年代から30年代の鹿児島の片田舎の農村であった。受験勉強とは全く無縁の世界で、大学に進学できるのは1%にも満たなかった。私自身、地方の工業高校を卒業するまで、大学予備校の存在すら知らなかった。大学は憧れの的であり、ましてや東大生といえば神様のような存在であった。たぶん大部分の大人もそうだったと思う。しかし、やがて社会人となってから独学して、国立のいわゆる難関大学に進学してからその思いは一変した。

 

昭和40年代の半ば、私が卒業した工業高校は鹿児島の中心校であり、家庭の事情で進学をあきらめざるを得ず、せめて高校だけは県下でも最も優秀な工業高校ということで進学してくる優秀な生徒が多かった。工業高校を卒業するとほとんどの仲間は県外の一流企業に就職して行った。私の場合は社会人となるもこころざし高く、一流の大企業から新聞少年に転身して大学進学を目指した。当然の如く受験勉強開始時はどん底の成績だったが、1年半後はやがて“神様”の行く東大にも手が届くところまで実力がついていった。特別に優秀とは思ってもいなかった自分が、である。この経験をしなければ、おそらく一生涯、大学コンプレックス、東大コンプレックスに悩んだかもしれない。どんなに貧しくても能力においては大卒であろうが、そうでなかろうが差のないことを身をもって体験したのである。

 

大学に行って学問をする意義はどこにあるのだろう。私はしっかりした目的をもって、大学でしかできないことを学び研究するところだと思う。そう考えると、ほんとうに大学でしか学べないことは極めて少ないのではないだろうか。現実に社会で役立つことは、学ぶ機会はいくらでもある。最近はインターネットの進展により情報は無尽蔵であり、いくらでも手軽に入手可能である。法人の大学は4年であるのに対し、社会の大学は一生涯続くのである。世の中には、学歴はなくともりっぱな教養や品格、高い能力をもった人は多い。逆もしかりである。大学卒という肩書が虚構のものであることは明らかだろう。では、なぜこれほど多くの人が大学を目指すのか?それは社会が大学卒という肩書を要求しているからに過ぎない。皆が行くから大学に行くという無気力な若者も少なくない。

 

ところで最近よく耳にする実力主義とはなんだろう。これほど実態のはっきりしない言葉はない。1995年頃から、企業においては実力主義の名のもと、成果主義、裁量労働制度など新たな制度が次々と打ち出されていった。どこの企業もこのような制度を次々と打ち出していった。そして、若い社員の幹部職登用が社会の流れとなり、先輩後輩の地位の逆転現象が目立ってきたのもこの頃である。それまでの年長者を中心とする家族的でなごやかな職場ムードも一変した。年配社員の給与は伸びなくなってしまった。一方で企業トップによる様々な不祥事が相次いだのもこの時期からだった。少なくとも人事制度の改革当初は、産業構造が大きく転換する中での人件費の抑制が主な目的ではなかったのか思う。

 

これまで成果を公平に評価し給料やボーナスに反映するための工夫はされていたように思うが、少なくとも私が現役で働いていた7、8年前までは、こと昇格に関しては曖昧なところが多かった。組織に従順で上司のご機嫌を窺いながらうまく立ち振る舞う若者が偉くなっていく。時代の流れに即した人間力こそが日本における実力主義の本質だと思う。恵まれた環境の中で子供の頃から受験競争を勝ち抜いてきた今の若者の多くは考え方がドライで、いったん地位を得ると人間が豹変したように目上目下の区別なく平気で部下を左遷させることもいとわないから、情け深い苦労人の年配者はタジタジである。上下関係の厳しい古いしきたりの鹿児島で多感な青春時代を過ごしたせいか、このような今の社会では何かとストレスを感じることが多い。

 

私が子供の頃、卒業式では必ず「仰げば尊し」を歌う習慣があった。その歌詞の中で「身を立て名をあげ」という部分がある。まさにこれが、少なくとも私の世代においては社会の共通の価値観であった。しかし、日本を戦争に導き、罪のない無数の国民に犠牲を強いたのも一部の「偉い人」達である。このような人たちが、今でも偉人としてもてはやされるのには違和感がある。実際に社会を動かしているのは無名の庶民である。人間的にりっぱな人は社会的な地位とは無関係に存在する。まさに「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』

 

人格の伴わない上昇志向や権力欲ばかりが強い人間が社会の中枢を占めるようになると、居心地の良くない社会になるばかりでなく、かつてのナチスのように国家をとんでもない方向に導き兼ねない。教育の基本は「身を立て名をあげる」ことではなく人格の形成にあるべきべきである。

 

まだまだ取り上げたらきりがないほど、我々は矛盾した常識や価値観に支配されていることに気付く。我々は人が作り出した幻想の社会の中で生きているのである。しかし、そこから外れて生きることは社会との軋轢を生じる。社会に従順にしてうまく立ち振る舞うことが最も安易で幸せにつながることも確かである。人間社会を生き抜くってことはほんとうに難しい。

 

おわり