ラテンアメリカの音楽をお好きな方なら、きっとチリの歌手ビクトル・ハラをご存知だと思います
2009年12月、ビクトル・ハラの葬儀が36年ぶりに行われました
たくさんの人々がこの葬儀に参列し、最後の別れを惜しんだそうです
youtubeでこの葬列の映像を見ましたが、本当にたくさんの人たちにビクトル・ハラは愛されていたのだなぁと感じました
私が彼の歌を聞いたのはもう何年前なのか思い出せませんが、初めて聞いたときのその衝撃は忘れられません。
これは一体なんなの~??と。。
ビクトル・ハラを知ったのは、歌からではなく、本が最初でした
その頃、ラテンアメリカに精通している日本の歌手であり、ライターである八木啓代さんの本が大好きで読みあさるうちに、「禁じられた歌 ビクトル・ハラはなぜ死んだか」に辿り着きました
こちらの八木啓代さんの「危険な歌」にもビクトル・ハラのことやラテンアメリカ事情について書かれています。
この本たちに感銘をうけて、どうしてもビクトル・ハラを聞きたくなり、CDを探したのですが、その頃、全然日本に売っていなくて、ラテンアメリカの音楽に詳しいところへ問い合わせたりして、やっとドイツ版のCDを手に入れました
ビクトル・ハラの歌声の温かさとその歌詞がすごすぎて、完璧に打ちのめされた気持ちになりました
1970年、チリでは大統領選でサルバドール・アジェンデが勝利し、世界でもまれな人民が選挙で選んだ社会主義国家が誕生しました
それを転覆させるため、アメリカがチリの陸軍ピノチェト将軍を援助し、クーデター計画を進めていました
その頃、ビクトル・ハラは民衆のための歌を歌う有名な歌手で、「ヌエバ・カンシオン(新しい歌)」の中心的な人物でした。
1973年9月11日、アメリカから多額の軍資金を得たピノチェト将軍は、陸海空軍を率いてクーデターを起こしました
アジェンデ大統領は、大統領府で戦闘機のミサイル攻撃を受けてもそこにとどまり、ラジオを通して最期の演説を民衆に残し、そのまま大統領府で亡くなりました。
VIVA CHILE! VIVA EL PUEBLO! VIVA LOS TRABAJADORES!
この日、快晴にもかかわらず、国営ラジオはこのことを悲しみ、「今、サンティアゴには雨が降っています」と放送していたといいます
そのとき、ビクトル・ハラは、軍部に抵抗していた人々と共にスタジアムに連行され、民衆を励ますため、「ベンセレーモス」という歌を歌い抵抗し、それに怒った軍人が彼の手を二度とギターがひけないように打ち砕き、それでも歌おうとする彼に機関銃の弾丸をたくさん浴びせ殺したのだそうです。。。
ラテンアメリカの人々には、アメリカの”9.11”より、この”もうひとつの9.11”のことが心に残っているようです。
彼の曲は放送禁止になり、また聞けるようになったのは、ピノチェトの独裁政治が終わり、民主化した17年後、1990年でした。
ピノチェトの時代は人権抑圧政策によって犠牲がたくさんはらわれた時代でした。
その後、ピノチェトは議員として残っていましたが、2006年死去しました。
殺人、誘拐などたくさんの犯罪を犯しても、議員として残り続けることができるなんて、ラテンアメリカにはよくあります。グアテマラでも同じです
今は、アマゾンでもビクトル・ハラのCDを買えるようになりました
政治色の濃い歌もありますが、ビクトル・ハラの歌声は、温かくて優しく懐かしい感じがして、聴いていて癒されます
彼の歌う子守唄も大好きです
「duerme, duerme, negrito」という歌で、アタワルパ・ユパンキやたくさんの歌手の人も歌っています。
子どもに歌って聴かせてあげたいな~と思います
こちらは日本でも人気の高いユパンキです
歌詞がおもしろいんですよ
子供を寝かしつけるのに、おいしいフルーツをもってくるからいい子に寝ていてね!とか、ちゃんと寝ないと白い悪魔がやってくるよ、とか、一生懸命働いても儲からない、とか。。
ビクトル・ハラについてこのブログを書くのに、チリの9.11について調べてみました。
グアテマラの内戦に興味があっていろんな本を読んでいるのですが、アジェンデやビクトル・ハラが殺された理由も同じなんだなぁ。。。。と悲しくなりました
たったの37年前にチリではこんなことが起きて、グアテマラでも内戦終結後、14年。
まだまだ知らないラテンアメリカについてもっと知らなきゃいけないと思いました
手始めに、ガルシア・マルケスが書いた「戒厳令下チリ潜入記」を読んでみようと思います
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