マヤカレンダー今日は「サル12」です。

 

古代マヤの世界観を学ぶとき、まずは「フォルム」「ナワール」「ウアイ」「トーテム」「精霊」のような「ことば」であらわす、言語では伝え難くて見えないものの存在について認識していかなければなりません。

 

「説明できないものの存在を、いかに概念がそのまま伝わるように説明するか」をずっと考えてきて、その結果今の私の個人レッスン指導スタイルとなりました。

 

 

 

 

 

人間は、頭で考えて行動する動物です。

常に論理的とまでいかずとも、自分で考えて自分で選択、決断して行動している。と”自分は”思って生きています。

 

わからないものについては、自分で調べて考えたり、人に聞いたりして答えを求めていく無意識的な習性が身についています。 つまり「わかろうとする」という理解への思考が優先され、この世界に「あるもの」については説明できないはずはない、この世界で、説明できない「もの」は「存在しない」と人間に都合よく合理的に考えていく、科学的な思考スタイルです。

 

 

ところが「ウアイ」「ナワール」の存在は、そういった思考では遭遇できない未知で不可知な存在です。

 

 

時にそれは「直感」としてあるいは「不思議なこと」として認識や体験されますが、そのことについて先ほど述べた科学的思考をしている「自分」を押しのけて、差し置いて、「直感」の働きを尊重するとか、同意して決断、行動していくとか普通はありません。というかまずはできない。

 

 

ところが「古代マヤ的なる世界」や「シャーマニズム、アニミズム、先住民の原初的な視座」のナーカルや精霊の働きを学んでいく、あるいは聞き知っていくと、次第に自分が遭遇する不思議な出来事や神話的な引き寄せに、だんだんと型を引き受けるかのように、親和的に接するようになります。

 

 

そこからが実は「マヤ的な試み」の始まりです。

 

人間は一人で、誰とも関わらずに生きている人はほとんどいません。

たいていは家族や友達、仕事仲間や社会、共同体とともに生きています。

 

でもそれは、マヤ暦体系でみれば、自分の「外側」「社会性」のトーテムをもって接続していく顔です。つまり「わたし」という存在を支えている「本当のナーカル、精霊、ウアイ」ではありません。

外なる自分です。

 

「直感」「不思議な事象」などの引き寄せは、時の精霊やナーカルによって運ばれた「報せ」的なもので、それを「直感」としてうけとっているわけなのですが、「外なる自分」は頭で考え、自分だと思っている合理的で科学的な思考は、「報せ」をどう受け止めて、実践、実行していけばよいのかを知りません。

 

 

自分の直感が正しいと感じるのか、自分の社会的な責任感や理性的な自分(マヤでいう社会的な自分の顔)が正しいと信じるのか、あるいは家族や仲間のいう主張が正しいと感じるのか迷い始めます。

 

どれを選択したらいいのか、選択すべきなのか。

 

時に「妻」という立場を第一にする人は、何をさておいても「夫」の意見に従うこともあるでしょう。

「母」であることを第一に生活している時は、「夫」より「子ども」を思う母の愛が優先されるかもしれません。

 

例えば世界中がコロナ禍にあるなか、日進月歩ワクチン開発がすすみ、あるいは感染数が推移している現状で、「上司」の意見と、自分の「夫」の意見と、自分の「父や祖父」の意見が違っていたりするとき、自分はどう考えるのか、従うことが必要なのか、自分の直感はどうなのか、耳を傾ければむけるほど、ジレンマが強まります。

 

 

そこでまず「立ち止まる」ことが大事なのだとマヤ世界観的には思います。

 

「ナーカル、ウアイ、直観、精霊」が送ってきた「報せ」や「メッセージ」は、誰のためのものか?

他者のものでも社会のものでも家族のものでもなく、「自分」へのメッセージです。

 

 

東日本大震災で、先生やみんなが「ここにいれば大丈夫」と言って学校にとどまってしまった結果、たくさんの子どもや先生たちが津波に飲み込まれてしまった「大川小学校の津波の悲劇」を思い出してみます。

 

誰かが「私は山の方へ逃げよう」と思って、他人に従わず、先生にも従わず、直観を信じて一目散に行動を選択したとき、助かったかもしれません。

それを決断、選択させたのはその誰かという「自分」と「自分のナーカル、予感、直感」との協力です。

 

 

例えば道を歩いていて、上から鉄骨が落ちてきて不運にも亡くなってしまうような場合も、「そこをその時間に通らなかったら」「その道を選んでいなかったら」「その日は行きたくなかったという直感を優先させていたら」などと悔やまれてならないほど、運命を呪いたくなります。

 

 

コロナ感染や不慮の事故も同じだろうとおもいます。

 

「直感」がナーカルを通して、あるいは時の荷とともに自分に「報せ」として運ばれてきたのなら、それは無視してはいけないのだろうと思います。それは言葉ではない「非言語的コミュニケーション」「精霊との対話」なのです。

 

例え家族が何を言おうとも、仲間がどう考えようとも、自分にとっては「NO」であるという選択を、「わからないし確かではないし、不安だし、こうもああも思うけれど、やっぱり直感が行くなといっている」と素直に受け止めてみること。

 

意見が一致したら、それは相手の直感も見えない世界からそう言われているのだな。と。

 

 

そこが最も大変で重要な、マヤ「シバルバーの岐路」の選択の試練です。

 

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