マヤカレンダー今日は「祖先・9」
本日は来年の運勢コラム記事が掲載されます
後ほどまたブログでご案内させていただきますね
昨日は「日本人のスピリチュアリティ」について、シンポジウムで議論された内容がまとめられている実松克義さんのレポートを、マヤ勉強会の皆さんと一緒に学びました。
仏教、キリスト教、イスラームの視点からみた日本の文化、精神性について、宗教とスピリチュアリティについて、非常に興味深くまとめられていて、皆でうなずいて、納得していました。
私たちが日常使う「スピリチュアル」という言葉は、とても安易で、世俗的、商売的になり、中身の薄いものになってしまっている。ということが非常によくわかります。
アメリカで発祥したニューエイジ運動をもちだすまでもなく、スピリチュアリティは今や世界的な現象であるが、それは現代日本の精神的傾向を象徴するものである。
多くの日本人は、窮屈な教義や戒律をもち、時には危険ですらある本格的な「宗教」を信じるよりは、安全でより手っ取り早く、精神的充足が得られる「スピリチュアル」なものに引き寄せられる。 現代日本において花盛りであるパワースポットは、一見神道の体裁をとっているが、その中身は神道と何の関係もなく、ただただ癒しとご利益を得たいがためだけの極めて日本的な精神文化である。 平林二郎 仏教の視点から
キリスト教と神道との関係については、加藤嘉之さんが次のように論じています。
キリスト教と神道との密接な関係は、明治維新に始まり、昭和に入って頂点に達する。国家神道は天皇制の精神的基盤であるが、不思議なことに日本のキリスト教はその批判を表立ってすることはなかった。むしろ多くのキリスト教指導者は、それを日本の国体のあるべき姿として容認し、あるいはさらに進んで賛同したのである。
つまり彼らはキリスト教徒でもあると同時に、神道の信者でもあったことになる。
神道とキリスト教の場合は、それぞれが独自性を保ち、かつ賛同しあっているので、非常にまれな現象であろう。・・・
日本的スピリチュアリティと共鳴し、無意識のうちに国体の有機的な部分として取り込まれていったのである。
「日本人のスピリチュアリティの本質は、曖昧模糊としていてよくわからない」
と実松さんは最後に述べながら
それは定まった形をもたず、時代と現実の状況に応じて千変万化に変化する。そしてこの変化は多くの場合は『無意識の次元』で起きる。
そのため日本人は自らが気づかぬうちに変化に順応し、思想信条上の過去を躊躇なく脱ぎ捨てることができる。
なるほどですよね。
日本的なスピリチュアリティは、仏教やキリスト教や密教や儒教などの様々な神々の宗教を融合させた、仏教でいう「本地垂迹説」という日本オリジナルな信仰の形態をとって、合体し、造り替えられた精神性ということになります。
でもね
実は古代マヤ・アステカの民族も
同じように
取り込み
融合し
合体しながら
亜熱帯ジャングルで生き延びてきた
従順さをもった
スピリチュアリティとアニミズム的な
日本民族に近い精神性をもった
民族だったのですよ
☆☆☆