マヤカレンダー今日は「ワニ・3」
最近の大学ゼミで「変わるもの」と「変わらないもの」についてのディスカッションがあったり、教授からの学びがあったりと、私自身が向き合ってきた「古代マヤ暦」なるものを「変わらないもの」と「変わるもの」という視座から考えてみることが多くあります。
社会も人も「時代や年齢とともに変わりゆくもの」です。
「変わらない」ものになるためには
「永遠」
や
「普遍」
というアレゴリー的な存在や意味を、その有り様として身にまとわないと「変わらないもの」にはなれません。
「人」が死ぬと「人」は永遠という「それ以上は変化しないものの領域」、つまり「世界の外」にあるものになりますよね。
アインシュタインもハイデガーもベートーベンも、その発見や思想や芸術も、普遍という名の領分へと移行され、歴史や時代の流れを超えて、人々に支持され批判され愛され続けうるものとなったのでしょう。
「今」
という、この瞬間を生きる私たちは「変わらないもの」であるはずがありません。
今日と明日がまったく一ミリも違わないということはありえない。
じーっと病気で寝ていようと
同じ姿勢を保っていようと
同じ仕事をしていようと
同じものを食べていようと
何をどうやったって
細胞レベルではありえないわけです。
水滴のように
石の上の岩のように
不安定であっても、一瞬で消えてしまう泡のような時間であっても
変化の連続を
不安定な連続を
うけとめて
抗わず
不安定なまま
「変わらないもの」を追い求めて生きる。
それが社会であり、それが人間なのだとおもいます。
愛も信頼も
変わる人間が求めているのだということ。
変わる人間の愛や信頼や信仰だということ。
それを理解せずに「変わらないもの=愛」と思うのは
危険だとおもいます。
ピラミッドや
遺跡やモニュメントになっているものは
すでに「普遍」なる世界
「世界の外」にある世界
永遠に近いところ
になっているので、人はあこがれ、魅了され、心が安堵するのだろうとおもいます。
それでもいつか
火山が爆発したり、大地震がきたり、隕石が落下したりすれば
地球レベルでは変わりゆくものになります。
それでも私たち人間や社会よりはずっとずっと
「変わらないもの」
に近い存在です。
古代マヤの世界やマヤ暦なる叡智、古代マヤの世界観に触れて
私たちの心が明るくなれたり、救われたり、元気がでたりするのは
「変わらないもの」への繋がりが生まれるから
「不安定な社会や人」の世界から
少しだけ
世界の外へと旅するイメージがもてるから
なのかなぁと思う「嵐」のトレセーナ周期です
12月のクリスマスイベント鑑定
残席あとわずかだそうです
【鑑定第一部残席1になりました:残席全3】1ツォルキン前とは違う私!
https://ameblo.jp/tikmil88/entry-12545704200.html