今日のマヤ暦は「ヘビ6」ですニコニコ

 

先日何とはなしにテレビをつけてみましたら、レトロな昭和の街並み風景やお店の雰囲気を、ミニチュア模型として作成されている方の制作風景が紹介されていました。

 

そういえば去年にも「人生の楽園」で紹介されていました。

 

 

 

埼玉・鳩山町 ~ 昭和の情景ミニチュア ~

 

 

 

 

昭和が良かった!というノスタルジックなことを言っているわけではありません。

 

商店街があったり、人が寄り合う「場」があって、その「場」が生きていた。

 

街が生きていたし、お店も場もただそこへ行くという意味においての「場」ではなく、そこに行くと何かわからないような共有感覚に浸され、満たされ、味わい、潤うことができました。

 

たとえそこに一人で行ったとしても、そのお店にいる人がみな笑い合えるような、仲間意識が生まれ、寂しく感じない不思議な空間があって、だからこその出会いもあって、満足して酔っぱらいながら帰る。みたいなことも出来ました。

誰と飲んだか、誰が支払ったかなんて、気にしなくても何とかなったみたいな。。。

 

 

電車やバスに乗っていても、人の「目」は生きていました。

 

笑い返すなんていう外国人のような社交性はないにしても、本や新聞を読む姿勢がまっすぐだったり、窓の外を眺める視線が悩み事に向き合ってるわびさび的なものだったり、あるいは子どもが乗っていれば眺めながらも微笑んだり思い出したりと「目」に心がありました。

一生懸命勉強している学生を見かければ、頑張ってるねと心で思い、優しく見つめる目がありました。

 

でも今はそういった意味での「場」がなくなり、人々の「目」が死んで、心は見えなくなりました。

 

 

 

個人商店も少しずつなくなってきて、大型スーパーやコンビニに変わり、旬のお魚のお話を聞くことも、八百屋さんにみかんをおまけしてもらうこともなくなりました。

 

田舎町ならまだあり得る光景でしょうけれど、都会近郊ではもう子ども一人で買い物に行かせたら、街の人達皆が見守りながら、子どもはおまけをもらって、誇らしげに家に戻ってくるなどというような体験はできなくなりました。

 

携帯スマホやネットやコンビニが悪いとかいっているわけではないんです。

それしかないことが、深い悲しみや闇なのだと感じるのです。

 

 

昔はあって今はなくなってしまったもの

 

 

「場」と「生きた目」

 

そしてそれを支える「天の心」です。

 

 

 

 

そういえばヘビも、都会では見かけなくなりましたが。