25日マヤ暦は「トカゲ・2」です。

 

今日はマヤから離れ、現代思想哲学界隈のことを。

 

1980年生まれ。若干38才という、哲学界に新星が出てきたようです。

 


ドイツ哲学者 マックス・ガブリエル Prof. Dr. Markus Gabriel

(ちなみに彼はコーン4でした)

 

「なぜ世界は存在しないのか」

 

 

 

 

 

 


彼は「シェリング Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling J」1775~1854の後期研究によって博士号を取得したとあります。
 

 

シェリング哲学は面白いと以前から感じていました。
超越論的観念論の体系、自然哲学と超越論的哲学を併置しようという試みで、「クララとの対話」は大変興味深く読んだ時期があります。ノートに記していました。

さらに、シェリングやヘーゲル、ゲーテやノヴァーリスに影響を与えたといわれている「フリードリヒ・クリストフ・エッティンガー」は、聖書神学における敬虔主義者として、教義的束縛から自由になるための啓蒙思想の備えをしたともいわれていて、聖書にでてくる奇蹟や描写は単なる比喩に過ぎないという考えに対して、聖書の森羅万象を「神的なるもの、霊的なものを指し示すエンブレム(寓意・象徴)である」と解釈し、聖書のエンブレムを読み解くために原初神秘体系なども積極的に参照した人です。

 


「エンブレムの起源について」 エッティンガー
ある事柄ないし対象について、いかなる本来的な意味をもたず、この世のいかなる知恵によっても十分説明できないようなことが言われたとしたらならば、このような言説をエンブレムや比喩として理解しなければならないのは明らかである。…エンブレム的な語り口を理解するには、目の前に示されている素材をみるだけでなく、その素材のとっている形にも注目しなくてはならない。形と素材はそれとしては一つのものであれば、思考によって抽象化して形だけを取り出し、来るべき世界においては新しく作られたものの姿が今とはまったく異なっているだろうと考えなくてはいけない。聖書があちこちで語っている未来の物事の形の全体を目の前に思い浮かべ、さしあたりのことをエンブレムとして理解しなければならない。エンブレムには光と影のような多くのコントラストがつきものである。それは影が光を高めると考えられるからである。
 

 


シェリング「クララとの対話」
自然と霊界の関連について(遺稿断片より)


クララはたずねた。
わたくしたちが感じるいまの状態の空虚を何によって埋めるべきなのでしょうか?
仕事によってです。つまり、かのより高い状態の宝をこの状態にとっても確かなものとすることによってです。
ではどうしたらそれが可能になりますの?クララはたずねた。
分割できないあり方でいわば直接的に直観したまさにそのものを、分割したかたちでもまた思い浮かべてみて、個々の部分においては断片である認識から、かつては感じられたかのものに似た全体をついに作り上げるということは、不可能ではありません。これは直観の至福の状態が失われたのちにも享受できます。認識をこのように分化すること、つまり認識を学問にまで高めること。このことこそ、この世の生における人間の本来的で精神的な定めであると私には思えるのです。p442
 

 

魂が人間における本質的なものであるにも関わらず、全体としては体に縛りつけられているということがすでに今の生において起こるとしたら、魂が霊・精神によって呪縛され、縛りつけられることはもっとずっと容易に起こりうるのではないでしょうか。
クララは言った――もちろんよくわかりますわ。ただ、身体的なものから精神的・霊的なものへの移動そのものは、今の説明によっても理解できるようにはなりませんわ。
私は答えた――あるいはそれは、私たち自ら経験するまでは秘密でありつづけるべきなのかもしれません。でもそれが理解できないとは言いませんね。現在という狭い範囲においても、そのような移動はたえず起こっているのですから。
どのような移動ですの?クララがたずねた。
つまり、覚醒から睡眠への移行、またその逆の移行です。
生命の循環それ自体は、眠っているときにもやむことはなく、ただ手段が変わるだけなのです。あるいは眠っているときに精神は私たちがあとで思い出さないとしても、思考や考案やその他の精神に属する活動に従事しているのでは?とクララは言った。そういたしますと、魂だけが二面的なのではなく、あるいは精神もそして体も二面的なのでしょうね。
 

 

地は、そして地から取られたからだもまた、ただ単に外面的に存在するべく定められているのではなく、外なるものと内なるものとはどちらにおいても一つになっているはずです。全体が単に外面的に現れているということは、発展が押し止められた結果であって、このことは内的な本体を滅ぼしてしまいはしませんが、内的な本体を包み込み拘束し、外なるものに従属させることはできるのです。内なるものが外なるものの鎖につながれているという、からだのひとつの姿が壊れると、今度は、外なるものが内なるものによって溶かされ、いわば押さえつけられて、体の第2の姿が解放たれ、現れてくるのは自然なことではないでしょうか。p454

 

 

シェリングから、後期ハイデガーの技術論や神的なるものという四方界モデル(四方域)につながります。
「自性態Ereignis」を世界と名づける。四方域もまた四方域として生起する世界である。

「なぜ世界は存在しないのか」
存在論的転回や多視座主義というヴィヴェイロス・デ・カストロへと導かれている思想が、マルクス・ガブリエルによってまた別の大河の流れが生まれつつあるのかもしれません。

「世界は存在しない」という主張のもとになっているのは何かを知りたいと読み進めていくと、面白いなぁと思える思考に出会います。

それは、ああそういえばそうだった!というような感覚。

 

多自然主義や多視座主義のように、実は世界は存在しないけれど数多くの小世界は存在している、ということのようなので「多世界主義」とでもいいましょうかニコニコ

 

 

まだまだ存在論的転回やオントロジーが熱い!

のは間違いなさそうです。。音譜