こんにちは。
12日、マヤ暦は「祖先・10」です。
明け方だったか、「ドーン」と物凄い音で雷が鳴りました。
そしたら雷の神「トラロク」のパワーが私の心臓に伝わって、トラロクパワーの手のひらに心臓がくるまれたような感覚になりました。
こういう象徴的なあらわれはよくあることなので
「どこかに落ちたのかな…」
程度でまたウトウトしていたら
「ドーン」
2回目のドーンは少し遠いところ。
「トラロクが少し歩いていったんだなぁ‥‥」
手のひらでくるまれていたようなトラロクパワーは、私の心臓をそっともとに戻し
するりと抜けるようにして天へと戻っていきました
朝起きて、トラロク雷パワーのことが気になって、調べてみたら
その本に答えがのっていました
アメリカ先住民たちにとって「力(パワー)」がどのようにとらえられていたのかを、人類学者ローウェル・ジョン・ビーンという人が分析しました。
ビーンによると、「力」とは現象を引き起こす主体(私の上の話では雷)であるが、この力は「心」をもたない無機的なものではないといいます。 つまり「力」には「意識がある」というのです。 また、力はあらゆるものに宿っているが、場所によってはたくさん存在し、あるいは見つかりやすいところにあったり隠れていたりすることもある。といいます。
「力」は宇宙において均衡が保たれていて、宇宙のパワー・バランスを守り、力の源泉と交感することが人類の使命なのだ、とも語っています。
古代から狩猟民、先住民族たちは、自然なるものと、超自然的なるものとを区別していませんでした。宇宙や精霊や神々や人間、動植物含め、すべては「自然なる存在」で、奇跡も、魔法のようなものも含めたすべては、自然界の要素であり、力の現われ方の顔のひとつだととらえていました。
なので嵐の神、獲物の神、大地の神、海の神などこの世界に作用している「力」は、擬人化されて神となったのです。
やっぱり!ですね。
私がトラロク(嵐と雷の神)をドーンに感じたのも、心臓にパワーを感じたのも、雷パワーの意識であり、顔であり、雷の源泉を私の心臓が感じたわけです。
このことをマヤ暦的に解釈するならば、「山の日、嵐・9、新月、部分日食」だった昨夜の力・パワーが、ドーンによって解放され、歩きさっていったよとなりましょうか。
政治権力、暴力、支配力などや、免疫力、治癒力、水力、復活力などのような力まで、すべての力には顔があって意識があり、わかりやすく現れることもあれば、ひっそり姿をひそめていて突然顔を出すこともある
と知っておくと、力がどんな形相をして近づいてくるか、もう少しわかりやすくなるかもしれません
Have a nice day!