誰かに出会ったことで自分の人生が大きく変わる事ってよくあるけど、本当に不思議なことですね
「出会い」と「別れ」って
「運命」に近しい意味をもつ言葉だと私は思います。
人生が180度転換してしまうような仕事に出合うこともあれば、社会的信用から立場、長年培ってきた実績など全て一瞬のうちに失ってしまうこともあります。
お互いが別の相手と普通の人生を送っていたのに、ある時ある人に出会って愛の衝撃を受け、自分たちの人生を捨ててでも二人で生きるという運命の選択をすることもあります。
100%の愛に満たされ、全ての人に祝福され、恋愛は結婚という確かな歩の道へと進んでいくのに、子どもが産まれたことがきっかけとなって、少しずつ愛のバランスと配分が違っていく。
100%だった愛は三等分、四等分されて家族の中へと分散される。
四分の一になって25%で愛が満足できなくなった夫婦は、少しずつ空洞を埋め補完しようとし結合や一体感から離れていく…
運命の流れは、出会いと別れによって変化しながら別の流れへと導かれていく。
どんなに「そうしたくない」と思っても、行きたくない方向へと流されていく。
それが運命なら逆らっても無理なのが現実なのかもしれませんね。
『愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である』
『愛することをやめてしまうことはできない以上、愛の失敗を克服する適切な方法は一つしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである』
これはドイツの精神分析学的社会心理学を生み出した「エーリッヒ・フロム」の言葉です。
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どこまで縁が続くとか、性格が合うとか合わないとか、結婚したほうがいいとか離婚したほうがいいとかってね、運命を超越した高次元から見ると、あまり関係ないみたい。
許そうと思えば許せるし、愛し続けたいと思えばそうなる。
出会いがもたらした意味、別れがもたらす意味、自分の人生観が変わった意味も含めて、それを決め、選んでいるのは「自分」という意識なのよね。
でも運命が変わる時にはすごいエネルギーがいる!
何しろ運命の方向が変わることで自分のそれまでの人生全てを失うかもしれないのだから。
慎重にはならなければいけないとは思う。
でも…
やっぱりそんなあり得ないチャンスか不思議がやってきたら、運命を受け止めてまっすぐに見つめあい、出会いであれ別離であれ、思いっきりぶつかり合ってボロボロになるまで自分を運命に預けてみるほうが私はいいと思うの。
ドロドロになって、ああもう自分てバカ~!とか、何で私はこんなに不幸なんだ~~とか、自分が砕け散るほど悩むってことは心が成長する時の必要な過程だから
なぜ私はマヤの世界観が好きなのかというと、マヤが私の大切な水平軸と垂直軸の道標で地図だから。
毎日の時のサイクルのなかで、自分の内面の成長過程の中で、精神的霊的な修行過程の途中で、自分を振り返りながら確認することができるの。
生命樹にはその不思議な魅力がある。
運命に翻弄されないよう、運命とともに生きる道を無意識に選んでいるのかもしれないわね。
誰のために
何のために
どうして今の自分の人生を生きるのか
それがわかるまで、人は出会いと別れの運命から解放されることはないと、私の大好きで尊敬するカール・ユング博士の本が教えてくれました。
私は普遍的なものが好きです。
たとえば神話とか、創作品(芸術絵画や音楽、建造物や書物もそうかな)、石、山、宇宙とか真理を探究する学問や数式もそうかなぁ
なぜならね
普遍の中では能動的創造を人は体験できて
そこに生きる証の光が輝いているのを見ることができる
エントロピーの法則的な視点から「愛」をみれば、時間と空間という水平的な現実世界のなかで、「わたし」から「愛する人」へ向かってエネルギーが移っただけで、相手を愛することで自分のエネルギーが増えるわけではないのよね。
だから時間とともにどんどん不安になって、カオスみたいになってしまう。
よって「ねえねえ、私のことは愛してくれないの?!」
「私にもエネルギーをちょうだいよ」と愛の贈与でなく交換を望むのかもしれません。
エントロピーの法則にあてはめちゃいけないと思いますが、イメージとしてはそんな感じ。
エントロピー増大の法則
☆出会いと別れの運命に翻弄されている人へ
現実で道に迷っているちっぽけな自分から
少し離れて
普遍の世界に思いを馳せ、自分を宇宙にゆだねきってみませんか?!
愚かな自分を発見できたとき
自分らしい道が見つかってくるかもしれないのです。
それでも翻弄され過ぎて自分を見失いそうだったら、マヤ生命樹で自分を知ってみてください!
☆サトリ電話占いでも鑑定しています