愛別離苦 | MAYAオフィシャルブログPowered by Ameba

MAYAオフィシャルブログPowered by Ameba

MAYAオフィシャルブログPowered by Ameba

あまりプライベートの事をこの場で今まで書いてきませんでしたが

今回はどうぞお許しください。いま同じような境遇に居て不安の中、

家族を支えている方々の少しでも何かのお役に立てればと思い、

そして私自身も生涯忘れたくない事として書かせて頂きます。



私の育ての親でもある祖母が

2014年1月16日16:18に天国へ旅立ちました。

86歳でした。


昨年11月に心不全と肺炎を併発し緊急入院。

この日から母と私の病院通いの毎日がスタートしました。


薬と点滴治療でなんとかリハビリが出来るまで回復し

グループホームへ帰れる退院の希望を抱き歩く練習を頑張っていた矢先


ある日一人でベッドから降りようとして危険ブザーが鳴っているにも拘らず

人手不足か看護師さんが誰もすぐに駆けつけずそのまま転倒。


生憎、この日は担当医がおらず当直医が検査もせずに

骨折ではない、と診断。


しかし尋常じゃない叫びで苦痛を訴える祖母の様子に

母も私も疑問があり、再度看護師に聞いてみるも

“医者が骨折ではないと言っていますから”との一点張り。


なんの治療もされないまま廊下までもれるほどの叫び声で訴える祖母。

痛い所をさすってあげるだけしかできないまま1日が過ぎました。


次の日病院へいつものように行くと

担当医はじめ看護師達が祖母のベッドを取り巻いていました。


こわばった表情の担当医が近ずいて来て

今朝再度レントゲンを撮った所、大腿骨骨折でしたと告げられる。


この日を境に祖母の人生は大きく変わりました。


退院間近から一遍、

今度は大腿骨骨折の手術をするか、しないかの選択。


祖母の年齢、心臓への負担、体内血液の量が少ないゆえに

輸血をする事への負担、透析の恐れも出てくる。

祖母が手術を受けるにはかなりのリスクが伴った。

死へ近ずく。

手術をしても一人で歩けるまでの回復はしないと言う。


そして手術をしなければ、生涯寝たきりだ。

寝たきりと言う事は老人にとって痴呆や肺炎などの合併症の進行がはやまる。


ちなみにグループホームで生活できる基準は、

一人で歩く事が出来るか出来ないかで決まる。

この時点でもう今まで居た場所へ帰る事は出来ないと感じた。

先々への大きな不安と負担が私と母にのしかかった。


なぜ退院間近だった祖母が

こんな危険な負担のある手術の選択をしなくてはならないのか?

やりきれない気持ちで張り裂けそうだった。


あの時、はやくブザーに気がついて

看護師が駆けつけてくれていたら・・・。


営業時間外の夜おそく各担当の整形外科医、内科医、心臓内科医に集まっていただき

病状の説明を聞き、祖母への体の負担、受ける事へのリスクなどについてを

各専門医の視点から話を伺った。


この会議についても、スムーズに運ばれた訳ではなかった。

若い健康体な人が手術をする訳ではないのでこの選択は命取りになりうる。

整形外科医の視点だけではなく各専門医に集まってお話しを聞かせて頂いた上で

家族の気持ちを再度整理し手術の決断をしたいので

お手数ですが集まって頂きたいと要請をしたからこそ時間外で集まって下さった。


そして、最初に担当になった医者はまだ研修医から2年たらずの若い医者で

話をする際にこちらの意見に対しのみ込めていない大きな不安を何度か感じたので

院長に手紙まで書いて経験のある整形外科医に変えて頂いた。


そうしてようやく話ができる体制になった。


最初は手術を受けた方がよいと言う方向の話しだった。

勿論、医者はデータで話をする。


今の祖母の数値だと、この割合でリスクが伴います。。。

そう言った話が永遠と続く。


『データのお話しはよくわかりました。

でも実際の生身の祖母の様子を毎日見ていますが、

どう考えても手術に耐えられるような感じがしません。

今にも死んでしまうような感じの人が手術に耐えられるとは思えないのです。

もっとLive感のあるご意見を聞かせて頂けませんか?』


『もし、ご自分のご家族が同じ境遇にいらしたら、手術を受けさせますか?』


私と母の問いに、目の前に3人いた医者全員が

『受けさせない』と答えた。



次の日祖母に手術は辞めたよ、と伝えると少し安心したようだった。

しばらく痛みをおさえる薬でなんとか対応した。


両腕に点滴、鼻に酸素の管をして、しかも歩く事も車椅子に乗る事もできず

だんだんとストレスがたまっていった。

夜、縛られているストレスから暴れて腕の点滴針を自分で抜いてしまう。

その度にシーツが血だらけだ。

そして針を自分で抜かないようにと更に手に大きなグローブをはめられる。


可哀そうで見ていられなかった。


しかし、そんな状況の中でもスマホのYouTubeで好きな音楽を聞かせてあげると

一緒に口ずさみ、手を左右に振って踊るまねをする。

祖母は歌が大好きだった。


五月みどりのお暇ならきてよね、一週間に十日来い、松尾和子の熱海ブルース

旅の夜風、東京音頭など私も一緒に何度も歌ったものだから

完璧におぼえてしまったよ。



この頃の会話から少しずつ痴呆が進んできたように思えた。

まだ私や母の顔も名前も解ったが、昔の話をいまの事のように話しだす。


祖母は昔、料理屋の女将をしていた人で女中さんを何人も使っていた。

それはそれは美人で可愛くて歌が上手で気前がよくて

町中の男性が祖母を目がけて毎晩呑みに来たらしい。

品のある大人しい顔をしている祖母だが、随分と大胆で情熱的な恋をしてきたようだ。


『今日はこれからお店に出るからそろそろ夜の支度をしなきゃね』

病院のベッドの上で話しだす。


小さい頃から沢山の苦労をしてきた人だけど

自分の一番華やかな時を思い出してるならいいかと

いつも話しにのってあげた。


我が家系は男性とのご縁があまり宜しくないらしく

代々女系家族できているが、女手ひとりで生き抜く事、

しかも子供をもち、育て上げる事の厳しさは祖母をみているとよくわかった。


この頃、幸いな事に食事は3食よく食べてくれて(ステロイド剤の副作用ですが)

一時期よりは骨折の痛みを訴えなくなったかな。


でも痰がでて来て、それを看護師が喉や鼻から管を使って吸引するのですが

そばに居るこちらまで苦しく辛くなる。本人も相当嫌がっていた。


12月は私もLiveが詰まっていて、会いに行けない日もあったけど

それでも出来る限り病院に通った。そしてなんとか年を越せた。


年明けと共に祖母の病態が悪化した。

貧血がかなり進行しているとのことだ。

消化器系の癌の疑いもあると医者に告げられる。


かといって手術は受けられないし、貧血の原因を知る検査も

現状の祖母には命取りになるのでそれさえも出来ない体になっていた。


また更に点滴も増え、

浮腫みも出て寝ている時間が長くなってきた。

急激に弱ってきているのが目に見えて解る。

そんな中『私、死んじゃうかもしれない』と祖母が小さな声でつぶやいた。


数日後、病院から祖母が重篤状態だと電話が入り

担当医から話があると呼び出された。

この血液の数値がここまで下がったら、祖母は危ないと言う。

覚悟をしてくれ。と言う話だった。そして輸血するかの選択を迫られた。


輸血するリスクの話を聞いてお断りをした。


次の日、下血。

担当医に目に見える状態で表われてきましたねと言われる。

個室の方が良いでしょう、と部屋を移される。


この頃祖母は、あ~あ~と唸る事が多くなり

あまり言葉を発する事が出来なくなっていた。


母と私はそれでも歌を耳元でうたったり、名前を呼んだり話しかけ続けた。


そんな中、小さな声で祖母が『甘えたい』と言った。

そんな言葉を祖母から聞いた事がなかった。

そして母に思いきり抱きつかせてあげた。


その日の夜、簡易ベッドを借りて私は一人病院に泊る事にした。

夜の病院はやはり薄気味悪い。

向こうの方から今まで聞いた事のない音が聞こえてくる。


明け方になっても祖母は鼻の酸素の管がうっとうしいのか

繰り返し取ろうとしていた。

その度に『コレは取ったら駄目だからね』と言うと『うん』と

うなずいて大人しくなる。


朝の6時までその繰り返しだった。


持病を沢山抱えている母は、祖母に対してしてあげたいけど

体や精神的に無理な事が沢山あった。それら全てを

私が代わりにしてあげようと言う気持ちでいっぱいだった。

幸いにも1月はLiveのお休みを頂いていたので

全てを祖母の時間に費やす事ができた。


次の日からは祖母の遺影の写真を選別したり、喪服を買いに行ったり、

葬儀屋の話を聞いたりと、自分の心と自分がしている行動が

チグハグで苦しい。



この時、祖母は日に日に食事量が減り、

ご飯を食べれなくなっていた。薬ものみ込めない。

看護師があげて食べない食事を、ねばって母や私がスプーンにとって

口へ運んでやると1口、2口食べてくれた。たったそれだけでもうおしまい。

それでも何故か嬉しかった。


次の日は目を開けている時間が極端に短くなった。顔のむくみも酷い。

この点滴で最後で、腕や足の血管も細くなりすぎて針ももう入らないので

次からは最低限の物をお腹から点滴します、と伝えられる。


次の日、今日は昨日より穏やかな気候の日だな、と目覚める。

空を見ると雲一つないブルーの空だった。

今日はなぜか一番お気に入りの洋服で化粧をちゃんとして

祖母に会いに行きたくなった。


祖母が昔から言っていた事をふと思い出した。

女性は男の人の前で常にお化粧をして、綺麗な顔をして、

綺麗な洋服をきていなきゃ駄目よ。とよく言っていた。


やはり昔料理屋の女将だっただけに

人が喜ぶ事、感謝の言葉を常に忘れず言葉にする人だった。

それが病院に入院したての頃、よく態度にあらわれていた。


自分の世話をしに来た看護婦ひとりひとりに毎日『ありがとうね』と

御礼を言い、男性の医者には必ず『イイ男だねぇ~』と言う。

医者もピンと張りつめた空気の中、思わぬ言葉を聞き、顔がほころぶ。

悪い気はしていないようだった。病院でも人気者だった。


この日そんな事を思い出しながら、いつもより小奇麗にして病院へ出かけた。


いつも通りの苦しそうな息遣いに加え、この日は痛い、痛いとやけに言う。

薬をのんでいないからだろう。

どこが痛いの?と耳元で大きな声で話しても、

ここと言う指図さえ出来なくなっていた。


あまりに痛みを訴えるので、担当医に何がどう痛いのか?

なにか処置は出来ないのか?を訪ねると

医療麻薬の入った座薬を今準備しているとの事でした。


看護師にその座薬を入れてもらい1分後位には、痛みを訴えなくなりました。

え?そんな効き目はやいの?というくらいでした。


名前を呼んであげると、うんと頷いたり

微かながら私の本名を呼んでくれました。

私や母の声は微かながら届いているようでした。


それから数分後、急に息遣いが変わりはじめ、

手を頭の上にあげたりと今までと違う何かを感じたのでナースコールを押しました。

しかし中々駆けつけてくれません。母が看護師を呼びに行きました。


祖母の手を握り、いよいよお別れの時を感じました。

医者も駆けつけ、まだ聞こえますから話しかけてあげて下さい、、、。


母の泣く横顔が見えました。


2014年1月16日16:18

私と母が見守る中、祖母は天国へ旅立ちました。


祖母はとても穏やかな綺麗な顔をしていました。

まるで眠っているようでした。

暫くすると看護師が体を綺麗にして浴衣に着替えさせてくれたので、

一段と粋な祖母の雰囲気が引き立ちました。


葬儀屋が来て安置所へ。

安置所では好きな東京音頭を流しながら母と2人でお化粧をしてあげたら、

信じられないくらい艶のある超美人になりました。


全国のみなさんに見せたいくらいだね、と最後に紅い紅を差してあげました。



生きると言う事、老いると言う事、死ぬと言う事。

誰もが与えられ体験する事だけど、身をもって

驚かないように戸惑わないように祖母が体当たりで

学ばせてくれたような気がします。


これは血の繋がりがあるからこそできる愛だと思います。


祖母が私達に学ばせてくれた事を、感じて行動した全てを

一つも無駄にしたくない。


初めての身内の死だけに、死を受け入れるには時間がかかりますが

祖母が残してくれたメッセージをこれから所々に感じて生きたいと思います。