その後 入院し 検査を 何度か しました


不安は 尽きなかったけど 父も 母も 明るく


面会時間中は だれかしら そばに いてくれた おかげで


私は なんとか 平常心を 保つことが できました




入院した 翌日 仕事で 忙しいはずの 主人が


新幹線を 乗り継いで 5時間かけて 病院へ やってきました


とくに そんな 話は していなかったので びっくり。。。


今 思えば それほど 重大な 出来事が おきていたから だけど


わたしは そんなことより 里帰り してから ずっと あえなかった 主人に 


やっと 会えたことのほうが すごく うれしくて 心強くて 。。


そして 両親の 前では これ以上 心配させたくなくて 出せずにいた 不安を


やっと 吐き出すことが できました






主人は ずっと そばに いてくれました


他愛もない話や 赤ちゃんの なまえの 話。。。


一緒に いることで これから 私が 受け入れなければ ならない 悲しみを


少しでも 和らげようと してくれて いたのかも しれません






そして 3日目の 夕方 検査の結果が 出たので 先生から 詳しい説明が


されるということで わたしと 主人 父が 会議室へ 呼ばれました





会議室には 産科 小児科の 先生など 3人がいました


目の前に ホワイトボードが おかれ 先生の 手には


なにやら たくさんの 書類が ありました


主人も 父も それに 先生たちも 心なしか


緊張しているよう でした





あの時 あのなかで 不思議と 私が いちばん 冷静だったんでは


ないでしょうか


ある程度の 覚悟は できていたのかも しれません


病室で 主人が 言った


「どんな子でも 俺たちの 子には 変わりないから 」


という 言葉だけが ずっと 頭の中に 響いていました






最初に 産科の 先生が 赤ちゃんの 病名を 告げました


「 全前脳胞症 」


つづけて 予期される 症状や 合併症 


顔面正中部奇形の 可能性


脳の 半分以上が  無い  



    





なにか いろいろ 詳しく 話して くれたのは 覚えています


私も 一生懸命に 聞いてたはずなのに 


よく 思い出せません




そして 先生が 最後に


「 生まれてから 数時間しか 生きられない 可能性のほうが


  高いです 」


と 言うのを 聞いた時 


私は 主人を見て 


「なにゆってるの?」


と笑いました 


主人は 涙を こらえて 私の 目を見て うなずきました





私は 周りを みわたし なにも 知らなかったのは


自分だけなのだと その時 初めて 気がつきました





そのあとも 先生は なにかを ずっと 話していて


私も なにか 質問していたのですが 


やはり 思い出せないのです



自分では 取り乱さずに 冷静に 話を 聞いていたつもりでした


涙が 出ないことを 不思議に 感じていました






説明が 終わり 先生たちが 軽く 頭を 下げて 部屋を 出て行きました


私も 立って お辞儀を したと 思います


部屋を 出て 病室に 戻る 廊下の途中で 


「ごめんなさい ごめんなさい ごめんなさい」


と 言って 初めて 涙が 溢れてきました



泣き崩れ 大声で ごめんなさい と 叫んで 誰かに 抱えられる 私を


さっきの 先生が 振り返らずに 去っていく 後姿だけ


なぜか 鮮明に 覚えています 




                                                            右矢印