と寿司の世界では云われております。

 来年のお盆頃で旧車が好きになり満50年。50年を振り返るとタ―ちゃんのおうちさんのブログを拝見をしていると丁度寿司屋で云うなら漸く握りをさせて貰える時期かな?と思う頃の記事だったので、雑感を書きたくなりました。

岡山で最初の旧車イベント (^▽^) | ターちゃんのおうち (ameblo.jp)

 昭和63年。私は旧車好きをどう表現したら良いのか判らずもがいていた時期でした。実は過日の九(苦)流しの集いでもそれに気付いてくれた彼女が居て、少し救われました。週に3回程度は今はピザ店になった場所へ行って、涙目テールRS41のエンジンレスでコラム操作をコラム噛み対策を含めマスターし、他10数台の廃車の名前を全て覚え、更には合わせに入った昭和58年には解体屋で60年代70年代の国産車の主な物は覚えた頃で、旧車趣味をどの様にすればいいのか?他人に伝わるのか?悩みました。同時に高校受験。まずは一旦旧車趣味は封印。受験が終わり暫くしたら…‥

平成元年3月15日 | 髙村円淨のブログ (ameblo.jp)

 こんな事が発生‥‥混乱をしました。同時に意地でも当時ナンバーを切って1年以上になる今の愛車の復活を考え始めました。それには学業を修めて云わいる「いい所」への就職が必須と感じました。今はその「いい所」なのかは想像にお任せいたします。

 

 今回は昭和63年当時私はどうしていたのか?を思い起こしたいです。

 今思えば、ここ迄鍍金を綺麗にするとは思いもしませんでした。

 あの当時部品を再鍍金で美しくする技法を私は知りませんでした。第一フロントバンパーは親父が何をしたのか知らないが、右端が下側に曲がり、何とか直した形跡があった。リヤは北斗の拳のケンシロウにやられた悪人みたいな変形があった。グリルモールだってボロボロ。かなりみすぼらしい物がありました。

 鍍金バンパーは車のコンディションを大きく左右する感じですね。

 ターちゃんさんの記事に返信していますが、当時の再鍍金事情は酷い物があり、握りを自分では始めたと思う平成2年、再鍍金やレストアなる修理を知ります。しかし現実は絶版部品は現物を治すしかない、当時は自覚がないが好景気、再鍍金をしてくれる業者は皆無に近かったのです。

 

 それこそクソ面倒な中古パーツ何て、鍍金槽を汚す一番の原因。金になりません。この握りを始めた平成2年はガレージに眠る我が愛車を見て、愕然としました。そうなると、ニューイャーなどのイベントでデッドストックを買うしか道がありませんでした。

 

 然しそれが叶うのは一部の人気旧車だけ。私が好きな車は…‥

 この様になります。

 これはフロントグリルに注目。Specialグレードでこれはないでしょ!白塗装です。

 多分ですがこの車は平成になったばかりの頃、名古屋78ナンバーが付いた当時29歳の女性オーナーだったと思います。当時私は丸刈り高校柔道部、17歳か?

 件の女性オーナーの手元に来た時は既にこの白塗装でした。

 

 まぁ、あの当時でも稀少車も稀少車だからデッド品也程度の良い中古品は手に入らない。問答無用でこの手の車はこういう「残念な」姿になりました。

  当然涙目テール何て車は当時は不人気旧車。(観音開きとは雲泥の差)これもおのずと残念な姿になってしまいました。昭和61年当時発行された1台の車JAPANでは丸テール迄のモデルだと、「バンパー等鍍金部品は再鍍金する事になるだろう、角テールはメーカーからの部品供給あり。」でした。恐らくギリギリで東京では再鍍金が出来た?いや実際は殆どなかったでしょう。70年代中には再鍍金を受け付ける業者は絶滅し、バブル崩壊し未だ出口の見えないトンネルの大不況下、苦しくなり「形振り構わぬ」経営で少しずつ再鍍金に道が開かれ始めました。

2012年に〇田師匠に再鍍金して頂くまで気にしていたが、どうにもならず目をつむっていたバンパーの端。良くその周囲を見ると、サフェーサーたる銅鍍金が余り完全でない事を示す笑窪があります。因みに師匠は3度銅鍍金をしては研磨していらっしゃいます。

 

これでも90年代の再鍍金としては90点。及第点でもベロベロと鍍金が剥がれました。更には目立つ場所に「おこげ」が付く事もしばしばで、出来上がらないと仕上げが判らないスリリングな買い物が再鍍金でした。

ターちゃんさんの記事で気になりましたが、左テールがやけに日焼けしています。

ややっ?あの頃だと岡山市内にA石さんと云う60年代の旧車部品を沢山ストックする人が居たので、「た〇〇」さんも部品を手に入れられたと思うけどな?

A石さんに譲って貰ったレンズ。左右セットだった筈。30年以上前でした。

テールの日焼けはメガウェーブで確認しませんが、このレンズは酷い変形変色があったのです。

師匠から見ればまだまだ握りは一人前ではない。昭和63年にもう少し旧車の情報があれば、握りに入るのがもっと早かったかな?あの頃は「くるまにあ」「CG」「carmagazine」で細々とやるのが精一杯でした。まぁ少し上の先輩も「車の免許を持っているとは思えなかった髙村先生の息子がここ迄車好きとはねぇ~。」とまた違う中学生活があっただろう。この点が惜しかった。戻るとすれば中学時代に戻りたいね。それともっと学校周辺の草ヒロをビクビクせず、堂々と見られたかな?

 

それと山形で旧車文化がもっと早く咲いていれば‥‥我が家の事だから一人で山形也なんなりに自転車で見に行ったかな?あの頃はそんな話はなかったと思う。

 

 

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