当時4歳になったかどうかの頃でしたが、持ち主は表立っては整備工場は経営をしていませんでしたが、農業の傍ら趣味で自動車やトラクターなどの整備をしていた方で廃車は部品取りとして置いていた様です。私が遊びに行くと邪見する事なく受け入れてくれました。
此処で遊んだ事は今なお鮮明に記憶に残り大分前ですが関口宏さんの御子息がJAFメイトで「私が愛用している60年代のある国産車を運転すると、普段の風景が別世界に見える。」と書かれた事が、まさにここの廃車場にある車に乗るとそう感じました。
ある時はルパン三世の世界が、持ち主が映画評論家水野治夫氏に似ており、そのOPの世界が車内から見える感じでした。然し今RS41を運転しても当時あれだけ見えて感じた違う風景が見えなくなりました。私自身の心からロマンが消えたからでしょうか。
昭和57年、持ち主は姿を現さなくなりまして、段々工場も含めて荒れてきました。それでも時折此処に私は遊びに来ては居ました。そして私はRS40系(最終型まで)の欠点であるコラム噛みの対処方法も中学生時代でマスターして居ました。
高校受験が迫る昭和63年末廃車置き場に変化が見られました。枯草が綺麗に刈られ、何かの前兆を感じつつ、受験準備に専念しました。
無事3/10の受験が終了しノンビリして居た平成元年3月15日事態が急変しました。
*因みに日本交通タクシーのRS40は山形市内にある私立高校で昭和40年代、特に就職希望の学生に格安で運転免許が取得できるようにと、「自動車運転講習」と企画し、初代セドリック2台とブルーバード1台を用意したが、昭和42年にブルーバードが大破事故を起こしてその代替車両が日本交通のタクシー上がりのガソリン車で多分64年式でも昭和38年に製造された個体だと思われます。
実際右フロントフェンダーが話を聞いた方の証言通り廃車になったマスターライン(モールの特徴から涙目だと思います)から外して付け替えてありました。
平成12年になり大伯母が今まではぐらせてきた廃車置き場の話をしてくれました。その時持ち主が判りましたが、かねてから大伯母は廃車場近辺の風景を悪く思っており、何とかしなければと考えて居ました。今でこそ特定空家法がありますが、当時はそんな物はなく近隣住民が何とかして欲しいと云う声と市役所が掛け合うが物凄い威圧的な態度を取られ、尻込み何ともならない、となり当時72歳の大伯母がそれを聞き付け「私に任せて!」と云うと廃車場は1年程度、整備工場は12年掛けて撤去させ新しい街並みに替えさせました。
タマタマ主が大伯母の教え子だった事と、男勝りな性格もありこの様な事が出来たそうです。90代前半までは身軽な動きでした。
この話を書かずして私の40年以上にわたる涙目テールRS41人生は語る事が出来ません。
全てのスタートでもあります。