平成元年の本日が「何が有っても涙目テールクラウンRS41に乗る!」と誓い30年になります。それ以前、我が家にこの車は既にありましたが子供の頃からお婆ちゃんにカローラKE20Dを含め絶対に運転席に座ってはいけない!と釘を刺されており見るだけで居ましたが、昭和52年4月お婆ちゃんの姉で元中学校教師だった大正5年(1916年)生まれの大伯母の家のすぐ近くに涙目テールRS41、日本交通タクシーのRS40、初期型のコロナRT40D他10数台の廃車が置いてある所があり、その廃車で遊ぶうちに益々我が家の涙目RS41好きが高じてしまいました。先ずは何と云っても運転席に座れるが大きな刺激で「大人になったら乗りたい!」と思いました。他にも10数台ありますからコロナに乗ったりと刺激がありこれまではトラック好きでしたがが乗用車に興味を持ちました。
 今廃車場は持ち主が経営する貸しビルを経て、ファミレスに生まれ変わりました。

 

 当時4歳になったかどうかの頃でしたが、持ち主は表立っては整備工場は経営をしていませんでしたが、農業の傍ら趣味で自動車やトラクターなどの整備をしていた方で廃車は部品取りとして置いていた様です。私が遊びに行くと邪見する事なく受け入れてくれました。

 

 此処で遊んだ事は今なお鮮明に記憶に残り大分前ですが関口宏さんの御子息がJAFメイトで「私が愛用している60年代のある国産車を運転すると、普段の風景が別世界に見える。」と書かれた事が、まさにここの廃車場にある車に乗るとそう感じました。

 ある時はルパン三世の世界が、持ち主が映画評論家水野治夫氏に似ており、そのOPの世界が車内から見える感じでした。然し今RS41を運転しても当時あれだけ見えて感じた違う風景が見えなくなりました。私自身の心からロマンが消えたからでしょうか。

 

 昭和57年、持ち主は姿を現さなくなりまして、段々工場も含めて荒れてきました。それでも時折此処に私は遊びに来ては居ました。そして私はRS40系(最終型まで)の欠点であるコラム噛みの対処方法も中学生時代でマスターして居ました。

 高校受験が迫る昭和63年末廃車置き場に変化が見られました。枯草が綺麗に刈られ、何かの前兆を感じつつ、受験準備に専念しました。

 

 無事3/10の受験が終了しノンビリして居た平成元年3月15日事態が急変しました。

 

*因みに日本交通タクシーのRS40は山形市内にある私立高校で昭和40年代、特に就職希望の学生に格安で運転免許が取得できるようにと、「自動車運転講習」と企画し、初代セドリック2台とブルーバード1台を用意したが、昭和42年にブルーバードが大破事故を起こしてその代替車両が日本交通のタクシー上がりのガソリン車で多分64年式でも昭和38年に製造された個体だと思われます。

 実際右フロントフェンダーが話を聞いた方の証言通り廃車になったマスターライン(モールの特徴から涙目だと思います)から外して付け替えてありました。

 

 
 その日何曜日なのか調べると水曜日、昼頃廃車置き場に行ったのでズル休みはしていないと記憶して居ますが???因みに記憶はハッキリしなくなって来ましたが3/17か18が合格発表19か20が卒業式だったのです。
 
 当時廃車場の入り口に4t車と思われるトラックのタイヤの跡があり、他に車のタイヤ痕がなかったので、ほぼ間違いなくユニックで乱暴に積み上げてヤードに運んだと判断しました。
 
 その後3日掛けて山形市、天童市、寒河江市、東根市を今も乗っている昭和39年購入のツノダ自転車に乗って解体屋を全て廻りました。然し見付ける事は出来ませんでした。当時探しに入らなかったのは鉄屑回収店で今思えばそこも探せば見付けられたかも知れません。
 
 志望校合格したが、何故か素直に喜べませんでしたが沸々と「何が何でも車庫に眠るRS41に乗る!たとえ無理でもこの車は手放さない!」とだけは誓いました。
 
 人間やれば大抵の事は出来る!は今実感して居ますがこの事件がなければ今の私は無かったと思います。
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 実際運転をしたのは平成10年。本格的に運転は平成14年からです。今思えば此処まで新車の様なレストアを依頼するとは私は30年前予想しませんでした。
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 近くをチョロっとではなく、東京や横浜に行く時の最高のパートナーとなり、私運転がおぼつかなくなる日がやがて来るでしょうが、その日が近付くまでこの車に乗ります。
 
 
 
 実は最近初代師匠=廃車場の主が亡くなった話を聞きました。廃車場はこの曲がとても似合う感じでした。

 

 平成12年になり大伯母が今まではぐらせてきた廃車置き場の話をしてくれました。その時持ち主が判りましたが、かねてから大伯母は廃車場近辺の風景を悪く思っており、何とかしなければと考えて居ました。今でこそ特定空家法がありますが、当時はそんな物はなく近隣住民が何とかして欲しいと云う声と市役所が掛け合うが物凄い威圧的な態度を取られ、尻込み何ともならない、となり当時72歳の大伯母がそれを聞き付け「私に任せて!」と云うと廃車場は1年程度、整備工場は12年掛けて撤去させ新しい街並みに替えさせました。

 タマタマ主が大伯母の教え子だった事と、男勝りな性格もありこの様な事が出来たそうです。90代前半までは身軽な動きでした。

 
 
 私にとって心の故郷、風景であり高村円淨の全てがこの土地でした。決してここを破壊した大伯母を恨んではいません。でも持ち主を教えて欲しかったし、廃車を救済したかも知れない、いやレストアで大きく役立ったかも?大伯母は今102歳となり30年前の様な身軽な動きは当然できません。

 

 この話を書かずして私の40年以上にわたる涙目テールRS41人生は語る事が出来ません。

 全てのスタートでもあります。