「いじめられる側に原因は絶対にない」
という言葉。
これね、一見正しいとは思うけれど、
それに、実際、いじめる側は
誰だっていいのだけれど、それに、
いじめる方が100パー悪いのは当たり前だけど。
原因は間違いなくある。
いじめられる原因っていうのは必ずあるのだ。
家が貧乏だったとか、
容姿が宜しくなかったとか、
運動が苦手だったとか、
ちょっとした嘘をついてしまったとか、
人が見ていないと思ってズルをしていたとか。
時には、
いじめを止めに入ったからなんて、理不尽な原因とか。
なにかしらの原因があることは間違いないのだ。
だけど、
それらの原因に、いじめられる理由がない、ということ。
つまり、その原因があるからって、
いじめていい理由にはならないってこと。
それを勘違いしてはいけない。
だけど、
「うちの子は悪くない。相手がすべて悪い」
と言っている間は、何も解決しないのだ。
もちろん、
「いやいや、あなたの子にも原因はある」
なんて、口が裂けても言えないし、言わないけれど、
親が、そのことに気づかない限りは、
ただただ、相手が加害者。
自分の子供は被害者で終わってしまう。
そこには、憎しみしか生まれない。
そして、自分の子をただ、
「可哀想な子扱い」にしてしまうから、
いつまでたっても、
可哀想な子供のままになってしまうのだ。
いじめられた子供の親がしなければならないこと。
それはまず、
その子の辛さをしっかりと受け止めてやることだ。
一緒に泣いて、一緒に「辛いね、辛いね」って、
その思いを一緒に味わうこと。
だけど、これも、本当に状況を見極めて行うことが必要で。
たんなる、子供の喧嘩ごときに、
そこまで「いじめ」に敏感になるのも問題がある。
この時点で親があーだこーだとわめきたて、
「いじめられた可哀想な子」を
逆に作り上げているパターンも多くある。
だけど、子供の様子が明らかにおかしいと思ったとき。
これは、親なら必ずわかるはずだ。
子供は何も言わないかもしれない。
だけど、
絶対に普通に子供と向き合っている親ならわかるはずである。
そのときは、親は、堂々としゃしゃりでよう。
子供が何も言わないのなら、先生に聞くしかない。
これでもかというぐらい、しゃしゃりでよう。
親が出て行ったことで、
もっといじめがエスカレートすることを恐るならば、
子供を学校に行かさなければいい。
堂々と学校にも何度も足を向け、
先生と話し合い、
言いたいことをいい、
先生に、イヤミの一つも投げつけてやればいい。
しかし、その工程で気をつけなければならないことは、
絶対に感情的にならないこと。
感情的にイヤミをいえば、「モンペ扱い」されてしまいである。
しかし、あくまでも冷静にイヤミの一つも言い放つことができれば、
学校側も、真摯に対応せざるをえなくなる。
「この親、中途半端な対応では見透かされる」
そう思わすことができれば、この勝負、あったも同然である。
そして、重要ポイントはもう一つある。
それは、必ず、
相手の「いじめっ子」を気遣う様子の一つも見せること。
これは、かなりの重要ポイント。
まあ、その裏には、実際そのいじめっ子にも、
本当は心のどこかに「寂しい」などといった
心の闇があることは間違いないから、
というのが優等生的な答えだけど、
しかし、それでもあえて、
その子に気遣いを見せることで、
「この問題はただのよくある子供の喧嘩じゃねえからな、
ええ加減に対応すんなよ」
ということを、学校側に無言の圧力をかけることにも
つながっているのである。
そして、それさえあれば、
「その子に単に文句を言いに来たわけではない」という、
いじめっ子の逃げ道をしっかりと用意することにもなる。
そして、忘れてならないことがもう一つ。
「先生方も大変ですね」
この言葉があれば、あなたは100点満点のいじめられっ子の親である。
つうか、先生方も実際大変なのだ。
たぶん。
その中で、しっかりと、
冷静に「我が子がなぜいじめられてのか」ということを理解しよう。
そして、
その、いじめられていた本当の原因を子供に言い聞かせ、
それが、家庭環境など親のせいだとしたら、しっかりと謝り、
「あ~いじめられる側でよかった」
「あなたが、もし友達をいじめていたら、
お母さんはもっと悲しかった」
その言葉を我が子に伝えるだけで、
そのいじめられていた子供が、ただの可哀想な子から、
自分に自信を持つようになる。
だけど、これは、
一緒に辛さを味わった後でなければ
子供にとっては逆効果になる。
「お母さんは何もわかってない」
そう言われて終いだ。
なので、絶対に、子供の辛さを十分に味わった後で
なければその言葉は無意味になる。
一緒に泣いて、泣いて、それでも、
「いじめられる側だったあなたは、
それだけでも価値がある」という思いが伝わるのだ。
そして、なによりも、しっかり子供に伝えなければならないことは、
「それでも、人を傷つけていい理由なんてない」
ということ。
いじめられっ子は、時として、あとで、
「いじめっ子」に変わることがある。
それは、そのことをしっかりと教えられていないからだ。
「可哀想ね、可哀想ね」と問題を片付けられた子供は、
「じゃあ、可哀想な子にはなりたくない」
という発想の転換をしてしまうのだ。
「人を傷付けることのほうが、
本当は可哀想な子」なのだということを
しっかりと伝えなければならない。
本当にそうだからね。
これは、本当にそう。
同じいじめを経験した親ならわかるだろうか。
いじめられる側だったからこそ、
親は、子供のその辛さに寄り添うことができたのだ。
代わってあげることはできないけれど、
一緒に、その辛さと戦ってあげられたのだ。
これが逆だったら、本当に辛い。
我が子が、人を傷つけて喜んでいたとしたら、
それほど、辛いことはないだろう。
