麻氐良布神社㊤㊦
2月4日(日)初参拝
この日は特にあてもなくブラブラ。
前からあったけど一度も入ったことが
なかった「だご汁茶屋」さんへ。
ブロ友さんが紹介されていた「だご汁定食」
は、焼き魚だったけど私のは煮魚だった。
焼き魚が良かったなぁ~※選べません。
昼食後
急に「麻氐良布神社行こう!」と
思い立ち、行くことにしました。
「まてらふ神社」と読みます。
入口の石碑には「左右良城跡」とありますが
「左右良」も「まてら」と読むようです。
まてらふじんじゃ
住所:福岡県朝倉市杷木志波5458
麻氐良布神社は朝倉の式内社
4社あるうちの一社であります。
一の鳥居
まずは下宮からお詣りです。
急に行くことになったので
靴はスニーカーではなく
スカートという出で立ち。
鳥居だったと思われますが
貫がありません。
狛犬
子持ち狛犬さんです。
お口の中が汚れていたので歯磨き
社殿
お社のなかは
割ときれいに保たれています。
上宮までは下宮の左手から奥に歩けば
辿り着くのですが
GoogleMapに道案内を
してもらったものだから
かなり遠回りをしてしまいました。
麻氐良山(まてらやま)
またの名を朝倉山ともいうようです。
日本書紀斉明天皇の条にこうあるそうです。
擅恣企画様サイトより
斉明天皇 朝倉橘広庭宮の鬼火と祟り・東漢草直足嶋の神罰
五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斮除朝倉社木而作此宮之故、神忿壤殿、亦見宮中鬼火。由是、大舍人及諸近侍病死者衆。丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。(伊吉連博德書云「辛酉年正月廿五日還到越州、四月一日從越州上路東歸、七日行到檉岸山明。以八日鶏鳴之時順西南風、放船大海。海中迷途、漂蕩辛苦。九日八夜僅到耽羅之嶋、便卽招慰嶋人王子阿波伎等九人同載客船、擬獻帝朝。五月廿三日奉進朝倉之朝、耽羅入朝始於此時。又、爲智興傔人東漢草直足嶋所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。
【現文】
(即位7年)5月9日。斉明天皇は朝倉橘広庭宮に移って居ました。この時に朝倉山の木を伐り除いたために、神が怒って宮殿を壊しました。また宮の中に鬼火(火の玉)が見られました。大舎人と諸々の近くに仕える者が病気になって死ぬ者が多くいました。
5月23日。耽羅(タムラ=済州島)が初めて王子の阿波伎などを派遣して、貢を献上しました。
5月23日。耽羅(タムラ=済州島)が初めて王子の阿波伎などを派遣して、貢を献上しました。
その後、即位7年7月 斉明天皇が朝倉宮で崩御。
即位7年8月 中大兄皇子が葬式をすると
朝倉山の上に鬼があらわれ、
大笠を着て喪の儀式を覗いていた
ということであります。
日本で最初に「鬼」という文字が
使われたのがこの時の「鬼」であるそうな。
麻氐良布の神は鬼という説もあります。
「まてらふ」とは変わった名称ですが
呪文のような響きもあります。
半泣き状態になりながら
獣道を進んでやっと上宮の本殿裏へ到着
※下宮の左手を進めばスムーズに行けます
三角点(295m)
狛犬
?
社殿
◆御祭神◆
伊弉諾尊、相殿に月夜見尊・天照大神・素戔嗚尊・蛭子尊
(福岡神社誌より)
靴を脱いで中に入らせていただきました
※結構汚れています
麻氐良布祠と書かれているのでしょうか。
下宮近くにあった説明版によると
屋根のふき替えなどで
御神体を別の場所へ一時移動する際、
山鳴りがしたそうです。
そして4ヶ月後元の場所へお戻ししたとき
「ボーン、ボーン」という
明るい音が響いたといいます。
こちらは
麻氐良城跡でもあるようです。
堀切(日本の城郭において
造られることがあった防衛設備の名称)
もあるそうですが突然伺ったので確認しておりません。
筑前国十社十九座神社
山道途中の祠
御朱印は日吉神社(久喜宮)で
いただけるようです※要事前連絡
画像がないので伝わらないと思いますが
サバイバルな神社巡りでした。
無事に上宮へ行けて帰って来られて
本当に良かったです。
ご覧いただきありがとうございました。
よろしければポチっと応援お願いします。