「西北西 西北西!次の場所は基山山頂

 霊々石たまたまいし霊々石たまたまいしへむかえっ!」

一人鬼滅ごっこはこれくらいにして。

動く画像がウザかったかた、ごめんなさい。

高校デビューと同じで、デビューが遅いと質が悪いですよね💦

 

鎹鴉(かすがいからす)は架空のカラスですが、

日本で最も生息地が広く都市部にも広く分布している「ハシブトカラス」が当てはまるとされています。

昨日、お天気が良かったので荒穗神社の御神体のある基山山頂へ行ってきました。

その前に荒穗神社でご挨拶と、私が御神体へ行かせていただくことのご連絡を

お願い致しました。

「パワー💪」

 

「・・・」

 

✱拝殿内✱

格子の間から撮影。

御祭神と思われる絵が掲げられています。

本殿裏から望む基山。天智天皇欽仰之碑も見えます(真ん中よりちょっと左)

こちらからも霊々石に向かって「今から伺います」とご挨拶をさせていただきました🙏

基山山頂付近に到着。

○○年振りに伺いました。前回訪れたのは小学校4年生の頃で10歳でした。

この日、山頂付近には小学校低学年と思われるお子さんたちが大勢いて、

ドローンで集合写真の撮影が行われていました。

傾斜は緩やかに見えますが、山を垂直方向に登ると結構キツい💦

近道かもしれないけど、体力使いますね。

富士山でも、頂上が近くに見えるからといって垂直方向に登る人がいますがおススメはしません。

山茶花が続く山道

 

シダ科の植物と、空にはドローン

 

✱いものがんぎ石碑✱

基山山頂への途中にある凸凹の地形は「いものがんぎ」(イモの(うね)の意)と呼ばれています。これは中世、人為的に作られたものであり、敵が攻めにくいように作られたものと考えられます。

わぁー子供たちが攻めてくるー

先生が「上まで競争!」とか言うので、先ほどの子供たちが一気に駆け上がってきました。元気いい!あっという間に追いつかれました。

私は小学校4年生の最後まで、基山近辺の(福岡県の)小学校に通っていました。

遠足では毎年のように訪れていたと記憶しています。

基山ではこの傾斜を使って草スキーができるので、当時、父が木でソリを作ってくれました。遠足の時に持たされたのですが、当時はまだ子供。

基山の標高は404mと低山ですが、学校から全て徒歩です。

距離を測ったら片道9.8㌔だって!

リュックだけでも重いのに、手にソリを持って登山するのは地獄でした💦

辛すぎて最後尾で泣きながら登っていたら、先生が見兼ねてソリを持ってくれました

その時の学校もクラスも先生も大好きで、その小学校を卒業したかったのですが

親の都合で引っ越すことになりました。そこが私の中で人生最初の転機です。大袈裟w

基肄(きい)城跡

7世紀後半、朝鮮半島では中国の唐と新羅(しらぎ)の連合軍が百済(くだら)を滅ぼしました。その百済復興のため、日本は援軍を送る決断をしましたが663年の白村江(はくそんこう)の戦いで大敗してしまいます。

このため、唐と新羅の連合軍が国内に攻めてくるかもしれないという緊迫した情勢が生まれ、中大兄皇子(後の天智天皇)は大宰府防衛施設の建造を急ぎました。こうして665年に築かれたのが基肄城です。百済高官の指導により築かれたこの朝鮮式山城は、大野城とともにわが国最古の山城といわれ、

山全体の地形を使い周囲4キロに城壁を廻らす壮大なものです。

(基山山頂石碑より抜粋)

ここは基山というくらいですから、色んなことの基となっている場所なのかもしれません。諸説あるようですが、一説によると「霧」の転嫁だとも言わています。

✱展望所跡✱

現在は跡の基礎だけ残して羅針盤になっています。

天智天皇欽仰之碑と通天洞(通称 避難所)と同時期に建てられた展望所は、

昭和41年(1966)建設 の休憩所横の高まりに建てられました。

昔はコンクリート製で8脚柱のギリシャ様式の建造物だったようです。

※画像はお借りしました

 

良かったら羅針盤からの動画もどうぞ(27秒)

北➡東➡南➡西

博多湾、福岡市、筑紫野市、宝満山、三笠山、大根地山、古処山、英彦山、釈迦岳、朝倉市、耳納連山、小郡市、久留米市、鳥栖市、契山、九千部山、脊振山などが一望できます。

このこんもりした場所の向こうに霊々石という磐座が鎮座しています。

 

逆光で見えにくいですね。

やはり子供の頃に霊々石を見た記憶はありません。

霊々石の近くで撮ったハズなのですが、その画像は消えちゃっていました。

霊々石手前の祠には男神と思われる御神像がお祀りされていました。

こちらでご挨拶と、子供の頃にお世話になったことなどお話をさせていただき

布留の詞を奏上しました。

近くに天智天皇欽仰之碑があるので、普通に考えると御神像は天智天皇だと想像しますが違うようです。

地元に伝わる伝承では、この基山は五十猛命(いそたけるのみこと)を祀る霊山であるとされています。

また、昔々、五十猛命が基山の「たまたま石」に腰かけ、四方を眺めていると、小川で洗濯する村の娘、佐子姫を見初めました。二人が契山の頂きで夫婦の契りを交わしたことから「契山」と呼ぶようになり、中腹には契山観音像が建立されています。

 

☟契山観音像が建立されているお寺

 

荒穂神社の記事にも書いていましたが、五十猛命と安曇磯良は同一神ではないでしょうか。私のは名前が似ているという単純な発想。

今回は伺っていませんが、ここ基山の特別史跡基肄城跡の南水門に隣接して住吉三神がお祀りされている住吉神社が鎮座しているそうです。

(GoogleMAPの口コミには18年7月の豪雨で被災とありました)

三角点を撮るのを忘れましたが、☝の画像の右側「基山」の看板辺りです。

 

本城址の石碑が途中で折れて倒れていました。

 

霊々石を後方からみたところ。

 

横から。

前方からだとわからなかったけど、注連縄のようなものがされています。

天智(てんじ)天皇欽仰之碑(きんぎょうのひ)の近くにも行ってみます。

 

天智天皇欽仰之碑は、昭和8年(1933)に建立されました。

基肄城を築いた天智天皇を称える碑であります。

 

当初、天智天皇ご本人の像を建てることで計画が進んでいたそうです。

しかし、当時の宮内省から二つの理由で許可されず、現在の形に落ち着いたと肥前史談会は伝えています。

その理由

①天皇像として造形化することはならない。

②天智天皇の御姿が現存していない。

 

従って、私は霊々石の箇所に安置されている御神像は天智天皇ではないと解釈致しました。

☟当時の天智天皇欽仰之碑除幕式の様子

 

天智天皇欽仰之碑は、一説では斉明天皇(天智天皇の母)崩御の地、朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)を向いていると伝えられています。

 

☝4年前の記事です。こちらには朝倉の地名の起こりは朝闇だと書いていますが

()の国の星』という真鍋大覚氏が書かれた本によると、「あさくら」とは「あした

のいはくら」即ち太陽が昇り立つ黄道に先だつ星座のこと。

古人はこれをよく天空の上に心得ていて、暦を(ただ)したのだそうです。

暁の明星がここに出るから、やがて朝倉の名が音写されたのであるが、昔は上座(あさくら)と書いた。座とは…星宿(せいしゅく)(昔、中国で定めた星座。ほぼ黄道に沿って二十八の星座を立て、これを二十八宿と言う)のことである。

と書かれています。

 

良かったら霊々石付近で撮った動画もどうぞ(32秒)

 

 

天智天皇欽仰之碑を荒穗神社から見た時、高千穂峰の山頂にある天の逆鉾が浮かんだんですよね。実際は全く形が違うけど。
下山するとき草スキーを楽しんでいるご家族を見掛けました。楽しそうブルーハーツ
 
何やら可愛らしい実のなる木を発見
 
ナンキンハゼかな
 
ドウダンツツジが美しく色付いていました
 
美しいグラデーション
このツツジのなかで猫さんがくつろいでいました。
 
 
名残惜しい気持ちで基山を後にしました。
この日は本当に気持ちが良かったです❣
懐かしの基山の大神様ありがとうございました✨🙏✨
 

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