My Family Diary -1274ページ目

私の父と母

ホームにお世話になっている父の面会に行くと喜んで、「小さい時からの大事な人」と嬉しそうにスタッフの人たちに私を紹介してくれますショック!


まず父の個室へ行き、持参した父の好物のおやつを食べながら二人でお茶を飲む。


「これ美味しいね。」と言いながら少なくなった語彙で一生懸命話してくれる。


サラリーマンの身で私たち三姉妹を中高一貫の進学校に入れ、私立大学まで出してくれた当時の


毅然とした父の面影はどこにもありません。



自分がだんだん壊れていくのを感じていたころの父の苦悩は見るに忍びなかった。


イライラしながらも、それまで護っていた母に今度は護られて、母を頼りきり、


二人で一人前とも言える日々を送っていた。


もはや二人きりでは遠出もできなくなったころ、私が二人に付き添って母の実家のお墓参りに兵庫県へ

行きました。


往きの新幹線の中で父が眠っている間に母が私に、


「相談があるんだけど。今厳しいカロリー制限をして血糖値のコントロールをしているけど、

私が死んだあとお父様が一人残っても困るからもう少し量を増やして食べたい物を食べさせてあげようと思うの。どう思う?」と言ったのです。


私は「そうねあまりにも少なくて可哀相だからもう少し緩めてもいいかもね。」といいました。


その直後新神戸に到着し、駅のトイレに入った母は二度と笑顔を見せることはなかったのです。


父がウロウロして迷子にならないように外で一緒に待っていたのですがあまりの遅さにトイレへ見に行くと、ドアの隙間から母が倒れているのが見えました。


ドクターカーで病院へ運ばれましたが2週間後意識も戻らず亡くなりました。


私たちは東京へ戻らず、妹も駆けつけてすぐ近くのホテルに部屋を取り、病院とホテルを行き来している時に、


前にも書きましたが父が、

「逆でなくて良かった、ボケた私が後に残れば悲しみも半分。」と言ったのです。


この深い深い言葉。。。。悲しみは全部私が引き受けたというような。。。。


今思い出しても涙が出ます。


それほどまでに母を大切に想っていたのかと。


私たちが巣立って行った後、二人であちこち海外を旅行し、余生を楽しんでいた矢先の

父のアルツハイマー発症でした。


一人っ子で依頼心の強いわがままな母でしたが晩年は一心同体、とても仲の良い二人でした。


お互いを補い合い寄り添って生きていました。


この頃はまだ私と母の問題には気が付いていなかったとは言え、


私も晩年はこうありたいと思う夫婦の姿でした。



今では父は目の前にある母の写真を見てもわかりません。


良く話して聞かせると「ああそうか。そうだったね。」とうなずく程度です。


悲しい現実ですが、父を遺していくに忍びなかったであろう母が天国で安心していられるように、


私のことが全く分からなくなっても父のもとへは通うつもりです。



明日からまた数日那須へ行ってきま~す音譜