木曜日にフジテレビで、本能寺の変の真相に迫る特番をしていたので、XのAI・Grokにいろいろ聞いてみました
まずは徳川家康の真犯人説です
本・ネットなどで目にしたことがあったり、中には信じている人もいませんか?
本能寺の変直後は家康が堺にいて、本能寺を急襲した光秀の軍勢に近い危機的状況だったにもかかわらず、岡崎まで帰っています。その後光秀を討った秀吉に臣従したものの、死後に江戸幕府を開いて権力を握った
しかし信長が生きていると家康の野心が果たせないため、光秀と結託または利用して信長を討ったという説です
Grokの回答は以下の通りです
家康は信長が死ぬことによって、利点よりもリスクが多いとしています
- 信長の死亡時にはまだ武田勝頼の力は残っており、上杉・北条・毛利・島津らの勢力もあった。また信長家臣の秀吉・勝家らの団結も家康は知っていたため、信長を討てば家康は日本中の大名・武将と戦う可能性がある
- 家康はこのころ、信長配下ではなく同盟に近い立場であり、信長は東北の伊達・甲斐の武田・相模の北条に対し家康の力が必要だった。このため互恵関係があり家康に信長を討つ動機がない
また堺から岡崎へ帰った方法として、「神君の伊賀越え」は後で作られた話については
家臣に伊賀忍者の惣領、服部半蔵がいたことからすべて嘘ではないとしています
服部半蔵や伊賀忍者は江戸幕府で馬廻・伊賀同心・甲賀同心に任ぜられた。半蔵だけでなく一門・郎党が出世したことが功労ではとされてます
神君の伊賀越えは誇張による創作であっても、家康の命を助けるほどの大きな功績があったというのがGrokの見解です
家康が光秀と結託し岡崎まで無事に帰ったという可能性はないようですね
では光秀は信長を討った後のことは想像しなかったのか
信長の家臣は忠誠心が強く、羽柴秀吉・柴田勝家らが弔い合戦で光秀を攻めるのは容易に想像できます。それでも光秀が本能寺で信長を襲ったのは、秀吉の謀略・計画という説もありますが
光秀は朝廷・細川藤孝・筒井順慶など足利義昭と関係のあった人物に支持を求めたが、協力を全く得られませんでした。朝廷の協力があれば秀吉は逆賊になり、各大名が光秀に与するためまさに天下を取るところまでいけます。しかし光秀は信長を討った正当な理由を出せなかったため、秀吉による「信長の敵討ち」が大義名分となり光秀は逆賊のような扱いになりました
本能寺の変の後、秀吉と勝家が織田家の実権をめぐり賤ケ岳の戦いをしました。また家康も信雄を担ぎ秀吉と戦うなど、織田家で内紛が起こります。この時に上杉・毛利・北条などが攻撃すれば、秀吉・家康・勝家ら織田派の大名を弱らせると思って聞いてみました
すでに上杉謙信が没しており、後を継いだ景勝が勝家と戦っていました。この戦で上杉はかなり弱体化しており、織田家と和平交渉に移っていたとされています
カリスマ的存在だった謙信が亡くなって4年しか経っておらず、信玄との戦いの後同盟関係を結んだ武田氏が滅亡するなど上杉の同盟者が次々と消えていきます。このころには孤立状態だったため、信長が死んだことで攻め入っても内部反乱・他者からの攻撃による崩壊の可能性がありました
毛利氏は秀吉と講和を結んでいたため、吉川元春らの追撃しようという意見より隆景らの講和を遵守しようという意見を受け入れました。輝元は毛利側の武将が織田の謀略で寝返っているのではと疑いを持っていたため、毛利内部も意志統一されていなかったようです
北条氏は武田が滅亡したことで関東の支配に注力しており、伊達氏は織田の支配に恭順を決めていたため秀吉・家康らを討つ勢力がいなかった
家康が天下を取るにはいろいろと偶然が重なっているように思えますが、どれもしっかりとした理由があるみたいです